matsuda's blog

あれから16年、阪神・淡路大震災と薬剤師活動

平成7(1995)117日、未曾有の災害が神戸に起きました。「阪神・淡路大震災」です。正式には「平成7年兵庫県南部地震」(気象庁による正式名称)ですが、政府により災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称することとなり、定着しました。「ホットニュース」というわけではありませんが、阪神・淡路大震災記念日に当たり、このテーマを採り上げたいと思います。

「阪神・淡路大震災」は6400名を超す死者、4万名を超える負傷者が出るという、まさに大惨事となりました。神戸の街を見た人は、戦後の瓦礫の町並みを思い浮かべた人も少なくないでしょう。それほど悲惨な状況でした。「神戸は甦るのか」と感じた人が大半であったと思います。あれから16年、神戸は見事に復興を遂げました。しかし、その影には、政府など公的なものだけではなく、民間ベースで全国から暖かい救援・支援があったことは特筆すべきことです。

薬業界においても、拠点である兵庫県薬剤師会館が倒壊したほか、多くの薬局薬店、製薬会社、卸業者、病院、薬科大学など広範囲に被害が出ました。亡くなられた薬業関係者もいました。兵庫県薬剤師会も会館が倒壊して全くその機能が停止し、交通・通信網の寸断破壊等により初期活動が不十分な時に、日本薬剤師会はいち早く支援体制を策定し、義援金という物的支援だけでなく、人的支援も行いました。大阪の290名に及ぶ薬剤師をはじめ、呼び掛けに応じて、121日以降、全国の薬剤師会から延1127名の薬剤師ボランティアが駆け付け、また県下会員の中にも自身の被災も顧みず、震災当日から自主的にボランティア活動に参加した薬剤師は延2500名近くに達しています。(兵庫県薬剤師会編集「阪神・淡路大震災における薬剤師ボランティア活動の記録」より)

県内外の多くの薬剤師が、厳しい寒さの中で、救援医薬品の集積・仕分け・配送作業や避難所、保健所、救護所等で物心両面にわたって活躍しました。また、個人的に救援・支援活動のために神戸に向かった薬剤師も少なくありませんでした。

その中には、株式会社育星会の社員(カイセイ薬局の薬剤師)の顔もありました。当時は、まだ10薬局でしたが、会社の薬局の被害状況を確認したうえで、「仕事に支障のない範囲」で支援活動に参加することとし、現社長の飯田彰をはじめ、薬剤師会の呼びかけで参加した薬剤師は、夜中に、そして交通網が寸断された中でタクシー等に乗って神戸まで駆けつけ、支援活動に携わりました。交通費は全て会社が負担しました。現顧問の目谷義夫も震災の翌日にはカブ(オートバイ)を運転して神戸に向かい、2度ほど転倒を経験。そのため、2度目は自動車に荷物を積んで連絡の取れない知人等を尋ねて回っており、当時の感激を熱く語る神戸の開局薬剤師もいます。瓦礫の中を歩き回り、被災者の支援に活躍した薬剤師の姿は、「日本は一つ」の感を強くしました。

平成7年は、兵庫県薬剤師会の当番により第28回日本薬剤師会学術大会を神戸で開催することになっていましたが、やむなく中止となり、急遽、宮城県薬剤師会が引き受けて仙台で大会を開きました。当時の吉矢佑日本薬剤師会長は、大会で神戸大会のポスターを掲げて挨拶したというエピソードが残っています。それから12年後の平成19(2007)に第40回学術大会を神戸で開催し、復興をアピールできたことは記憶に新しい出来事です。

阪神・淡路地区の薬局薬剤師は、被災者であると同時に支援者であるという2つの立場を持っていました。その活動には多くの困難がありましたが、被災者の立場を超えて支援者として活動したことは薬剤師が市民の健康を守るという公的な立場であることも浮き彫りにしました。

2011/01/17(月) 00:00