yoshio's blog

2012年8月

全体会議講演(平成24年4月22日) のまとめ3・患者さんを抱きかかえた薬療

3.患者さんを抱きかかえた薬療

先ほどお話させていただいたように、今回の改正で100点の「病棟薬剤業務実施加算」が新設されました。

病院薬剤師が入院患者の薬療を個々に細かく管理充実して行こうとする試みです。薬療している患者の安全性と有効性をより拡充して行く為、病院薬剤師がどんどん実施して行こうとしています。まだまだ制約がありますが薬剤師による投薬も認められようとしております。

しかし外来の患者さんが毎日服んでいる薬の薬療は一体誰が指導・管理しているのでしょうか?自宅で薬を服んでいる時に不安や問題が起きることが多いのに、誰も手助けせずに(特に調剤して投薬した薬剤師)、薬を調剤して店頭の短い時間で「ハイ!お大事に!」と『お大事に薬剤師』でいいのでしょうか?「問題が起きれば処方医に連絡して下さい」で済ませていいのでしょうか?

薬療を受けている患者のうち入院患者の薬療の管理・指導はドンドン充実して行くのに、外来患者の薬療は何もせずに放って置いて世間が認めていただけるのでしょうか?

「処方監査して正確に間違わずに調剤する」という過去の調剤観念だけで許していただけるのでしょうか?

冒頭で申し上げた今の医薬分業は

「本当に患者のためになっているのか」

 

一人一人の薬剤師が費用に見合うだけのサービスを患者さんに与えているかどうか、見つめ直す時期に来ているのではないでしょうか。

 

医師や製薬企業と協力して患者さんに投薬していた時代から、患者さんと手を繋ぎ患者さんの目の方向と同じ方向を見て、時には医師や製薬企業と対峙しなければならなくなったのではないでしょうか?

臨床薬学を充実した6年制の確立が世の中の流れではないでしょうか?

 

育星会のホームページを見た時に、飯田社長の冒頭の挨拶で、「カイセイ薬局は『あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師』を目指す」と書いてありました。「2週間の投薬した患者さんが自宅に持って帰ってから服み始めて2週間の間の空白のフォローを我々がしようではないか」という文面を見、これが会社の方針であるということを確認した時に、物凄く感激しました。「われわれが頓挫したことを、彼は今の時代に合わせて始めようとしているのだ」と感じたからであります。

 

我々の時代に始めようとしたことを少し説明しますと・・・。

       「あなたにやさしい薬局」は、医事課(現推進課)の人たちに患者さんの顔を見たらすぐにお名前を言えるようになってほしい。

       「あなたにやさしい薬剤師」は、薬剤師全員に携帯電話を配り、その番号を薬袋の裏に記入して、あなたの薬は薬剤師の○○が調剤しました。薬の服用している期間に24時間いつでも変化があれば、まずは私○○にお電話下さい・・・と。

 

この運動を始めるべく半年ほど掛けて飯田社長(当時は専務)と一軒一軒の店へ説得に回りました。しかし残念ながら私が退職の時には挫折したままでした。

行き詰った訳は、医事課の名前記憶は個人情報保護の問題が世間で次第に浸透して来た為に、公共の場で名前を呼ぶことが困難になってきた事です。最近の病院の呼び出しや病室の番号を見ればお解かりいただけるでしょう。それまでは、病院に行きますと、病室には名札が貼ってありましたが、現在はありません。全部番号です。病院の受付で名前を呼んでくれるかなと思って待っていますと、番号札を渡され「何番さん」という言い方です。公共の場でのプライバシーの問題なんでしょうね。そういう時代になって来ていますので店頭でお名前を呼ぶ事に躊躇し頓挫してしまいました。

24時間の携帯電話応答は、患者さんの服用している薬について、店を出ると薬暦がないので対応が困難(お薬手帳で少しは緩和)でした。一人一人の薬歴を記憶しておく事は不可能でした。従って、これも行き詰ってしまいました。

ところが、飯田社長に再度打ち出した理由をよく聞いてみますと、今、新しいコンピュータの開発をしており、それが完成すればその悩みは解消されるとの事でした。どこからでもプライバシーを護って薬歴を見ることが出来ますし、患者さんも自分の家で、ゆっくりパソコンを使って自分の薬歴や病歴をみることができるようなシステム(店頭ではゆっくりお話できる時間がない)づくりが始まっているとの事(店頭での服薬指導の形が変わる)でした。そのスタッフに飯田社長も加わって目処がついて来ているようでした。

そのようなコンピュータシステムが出来て、投薬した後のフォローを丁寧に出来る薬局と薬剤師になれば、どのような将来が展開されるのか想像する事が出来ます。患者さんは信頼できる薬局・薬剤師が出来ればそこに処方せんを持って行きます。今、マンツーマンで、「そこしかアカン」と思っていますので、その薬局に行きますが、「自分で信頼できる薬局を選べる」ということが徐々に判れば、一番信頼できる薬局に殆んど持って行くでしょう。そこで、患者さんとの間でコミュニケーションが出来、薬剤師も患者さんから教えられ、患者さんを手本として、患者さんを教師としてどんどん薬剤師としての質が上がります。良い方向に回転します。育星会として全員でそういう方向に進もう、150名の全員が力を結集して進むという迫力たるや素晴らしいものだと考え、今回喜んでお話をさせていただくことにしました。

 

2012/08/31(金) 00:00

全体会議講演(平成24年4月22日) のまとめ2・知識と知恵

2.知識と知恵

二点目は、知恵と知識という問題があります。私と川久保は、処方せんが出ない時代に一枚でも多く処方せんを獲得するのに苦労した時代の知識を持っている訳ですが、処方せんが当たり前のように出回っている今の時代の状況下では、古い知識で凝り固まっている私たちが居残って運営していては、ともすれば過去の知識に固守し自分が気がつかぬ間に間違った方向に行く可能性が多々あると考えました。「処方せん獲得の時代は終わり、これからは処方せん調剤の質の時代である」ということです。質の問題なのに、獲得の時代の感覚が尾を引いて居れば時代の移り変わりを見誤り、会社の発展に大きな迷惑をかける事だろうと考えました。

知識というものは、年月が経ってきますとどんどん豊富になりますが、それは全て過去の産物なのです。若い人は年月が経っていませんので知識が少ないです。そうしますと、一つの問題を解決する時に、若い人は知識がありませんから、一生懸命知恵を絞って問題を解決しようとしますので、その時代に合った知恵が自然と出てまいります。そしてその時代に合った解決をして行きます。

「処方せん発行の時代から医薬分業の質の時代」へ変わっていく時代ですから、過去の知識を持った人から現時代の知恵を出す人たちへと移り変わらなければならないと考えたわけです。若い人たちは知識がないので知恵を絞ります。そして豊富な知識を持った社会人になっていきます。ところが、豊富な知識を持つと新しい時代の知恵が出ません。知識は古い時代のものですので、新しい時代にはほとんど対応できません。日本には、そのような単純な事が理解出来ず、日本の将来を阻害する政治家や、会社を私物化し会社の発展を阻害している人たちがいっぱいいます。

日本の企業では、特に創業者の99%はそのような気持ちになりません。最後まで自分の存在を残しておきたいと考えます。それは、会社に対する愛着というよりも自分に対する愛着です。会社に対する愛着なら退くことが本来の姿でしょう。自分の欲望に対する愛着ならその職を維持し院政をひくことです。ほとんどの創設者や団体で力のあった方はこの引き際を誤り、自分にも他人にも迷惑をお掛けすることになります。

私は、引くということを決めたら、会社にも顔を出さない、それが自分自身と会社に対する愛情であるという考えでいました。

今の企業や官・政界を見てもらうとよく解りますが、いろいろなところで、年寄りが残ったために、時代や社会の流れを読む事が出来ず、会社や政界がおかしくなったケースが色々みられます。

年寄りが会社に残るということは、「豊富な知識を持った私が居なければ」という理屈で、創設者は残ろうとしますが、それは本当に正しいのでしょうか・・・。私は、知恵と知識という関係から、「会社に対する本当の愛情は何だ」と自問自答しながら、もちろん、川久保君が亡くなったという大きな要因もありますが、飯田君にご苦労をお願いしたわけです。

われわれの時代の苦労も知りながら、必要な知識を持ちながら、新しい時代に対応できる人は「飯田君だ」と思いました。飯田君は以前の苦労した時代の知識も持っていますので、「患者さんを大事にする」という考え方は引き継いで、患者さんに対するサービスや社員に対する思いやりを充分に持っています。育星会は、飯田社長という素晴らしい後継者がいて、彼にバトンタッチ出来たことを非常に幸せだと思っています。

飯田社長を頂点とした若い組織に変えることが会社そのものを発展させる大きな要因だと考えています。

 

2012/08/24(金) 00:00

全体会議講演(平成24年4月22日) のまとめ1・医科処方せん0(ゼロ)の時代

1.医科処方せん0(ゼロ)の時代

私が医薬分業の夢を持って店頭に立った時は、医科の処方せんは全く0枚の時代で、それが薬局では当たり前の時代でした。従って、11~2枚来る歯科の処方せんを一枚一枚大切に扱って来ました。一枚の処方せんを大事に扱って、感謝され、その患者さんがまた来てくれるように、また家族も連れて来てくれるように、徹底的に患者さん側に立って親切に優しくしました。同時に良し悪しは別にして、若いから出来たのでしょうが、処方せん発行の可能性の有る医師に対しても米搗きバッタ(ショウリョウバッタの別名)のように頭を下げまくり一生懸命コンタクトを取ろうと致しました。そのような時代でした。

それは、何百年も分業の歴史が続いているヨーロッパと違って、日本では、薬師(くすし)という昔からの歴史があった中で、明治以降に新しい制度が出来たわけですから、それほど急に変わるわけでもありませんし、そういう時代背景があって、そのような状況の下で育星会が出発したと云うことです。(この時の出発前後はブログに書きました)

昭和49年に処方せん発行料が50点になった時に、育星会も出来ました。それ以前はどんな状態だったかと少し触れてみますと、みなさん想像できないでしょうが、私の店の八千代薬局は親父が経営していましたが、私が阪大病院の研修を終わって店に戻り、医薬分業に取り組もうとしました。ところが、薬局はちり紙と洗剤とOTCの薬だけで、処方せんは歯科の処方せんが1週間に何枚か来る程度です。医科の処方せんなんか親父共々1回も見たことがありませんでした。親父は気性の真っ直ぐな方で一面学者でもありましたので、〔分業以外薬剤師の存在は有り得ない〕と一生懸命薬学生の私に説いていました。しかし、自分の代には分業を実現できず、辛い思いをしていました。

そこで、「私が医科処方せんの来る八千代薬局を創りましょう」と言って、周辺の医療機関20軒ほどを毎月1回訪問するように回り始めました。育星会ができる前の話ですが、殆んどの医療機関では取り合ってはいただけませんでした。何故なら、薬は100個買えば100個の添付、サービスが付く時代です。ですから医師は薬を手離す気はありません。従って、訪問する事は、薬剤師は医師の利益を取りに来ている者と曲解されました。

例えばある診療所を訪問した時に、「あなた方は4年制でしょ。4年間で解剖学を習いましたか?」と聞かれ、「習っていません」と答えますと、「解剖学を習っていない人が、専門家だと言って薬を出されるのは困る。我々の方がよく知っている。そのような人に薬を渡すのは非常に不安だ」という先生もおられました(この時の思いが後々6年制への運動に繋がります)。中には、2度目に訪ねて行きますと、看護婦さんが「八千代薬局の目谷先生お見えになりましたよ」と言うと、診察室にはおられた先生が、「薬屋さんか、おらへんと言って断ってくれ」という声がしました。悔しくて悔しくてその夜は眠れませんでした。あまりの悔しさに、夜中にうなされて飛び起きましたので、家内がびっくりして、「何があったの?」と聞くくらいでした。

私は薬剤師だと思ってお伺いしているのですが、世間では「洗剤やちり紙を売るクスリヤさん」です。そのような時代に八千代薬局に戻ったものですから、薬剤師としての夢が崩れて行く毎日でした。

しかし、回っているうちに、ある1軒の先生が、「病院から帰ってきた患者さんが、『病院でこの薬を飲みなさい』と言われて来たがうちにはその薬がない。そのような場合だけ処方せんを出しても良いか」と言われました。それで、「有り難う御座います」と申し上げ、早速処方せん用紙を持って行き、レセプトの書き方なども説明しました。暫くするとその診療所から処方せんが1枚来ました。

今から思い出しますと、嬉しくて嬉しくて涙が出るほどでした。その処方せんをすぐに「額」に入れて、その左側の余白部分に自分の嬉しい気持ちと医薬分業への熱意を書こうと思いましたら、親父が自分に書かせろと言います。親父は達筆でしたので、僕の考えた文章を親父に書いてもらい、それを持って右側の余白部分に処方せんを発行した先生にお気持ちを書いていただこうと診療所へ行きました。「初めて見る医科の処方せんですので、記念に調剤室に置いておき、毎日感謝しながら調剤したいと思います」と申し上げました。そうすると、先生は非常に感激していただきまして、「薬剤師はそんなに医薬分業の事に夢を持っているのか!」と言われ、処方せんの右側の空白欄に「これだけ感激されるとは思わなかった。私も嬉しい」と書いていただいたと思ったら、数日後から処方せんが一挙に出始めました。それほど患者さんが多い医院ではありませんでしたので、110枚ほどでしたが、とても嬉しくてやり甲斐のある毎日を過ごしました。

親父が月末にレセプトをまとめながら、「薬剤師になって死ぬまでに1度で良いから処方せんの束を見たかった」と言いまして、毎日、処方せん11枚を丁寧に確認して、請求も全部親父がしていました。そういう時代でした。ですから、余談になりますが、親父が亡くなった時に、私は、5年経過した処方せんのコピーをポケットに入れて、葬儀場で棺の中にお花を並べる時に、ポケットから処方せんのコピーを出して一緒に親父の手元に置きました。物凄く喜んで成仏して行ったのではないかと思っています。

そして、その後、川久保・佐久間・長尾君という良い相棒に出会い、いよいよ会社を創るということになったのです。

処方せん料が50点となって処方せんが出始めましたが、医療機関を訪問し、よく話し合って、その先生と充分な相互理解を得てからマンツーマン分業を始めました。充分な話し合いもせずに分業を始めますと、マンツーマンの場合、毎日の事ですので、後々になって医師や調剤する薬剤師との間で患者を挟みトラブルが起こり困ることがよくあります。ですから、お互いよく理解できるまでは慌てて進めませんでした。「患者さんをどのように見ておられるか」が重要な共通点でした。

 

資料の「処方せん受け取り率の推移」を見ていただきますと、昭和49年に50点となって処方せんが少しずつ増えてきます。「処方せんを出そう」と初めから思っておられた先生は、薬の利益があろうとなかろうと、「医師が投薬するということは将来なくなって行くだろうし、薬価差も縮小の方向だし、診療所内での院内調剤に不安を感じ、処方せんを出していこう」と考えられる先生が少しずつ増えてまいりました。その先生方とゆっくりお話し、お互い納得が出来た時点で、「それでは前に薬局をつくりましょう」と門前に調剤薬局をつくって行きました。

ところが、平成6年に急激に処方せんが伸びています。国は入院調剤技術基本料として、病院薬剤師が入院患者を訪問して薬のことを説明するということに対して点数をつけました。最初は1ヶ月に1100点、ベッド数は300床以上という条件でした。それが改定毎に増額しまして、平成6年の4回目の改正の時には薬剤管理指導料という指導という考え方になり引き上げられ、平成8年には450点に麻薬の50点がプラスされ、500点となりました。それに月2回もらえるようになりました。つまり月1000点近い額になりました。しかも、ベッド数の規制がなくなり、薬剤師が2名いればOKとなりました。

そうしますと、病院の薬剤師が患者を訪問して薬の服用について説明すると1ヶ月1万円近くもらえます。病院の調剤室では殆んどフィーがなくて、診療報酬の面で薬剤師による収入が少ないという形でしたから、薬剤師はできるだけ病棟の方に行こうということになりました。本来なら、薬剤師を補充して、院内調剤をしながら病棟に回したらよいのですが、薬剤師が足りませんので、なかなかうまくいきません。ですから、「一斉に処方せんを出して、外来調剤はしない。その代わり、その薬剤師を全部病棟に回す」という方法の方が利益の面では納得できます。

そこで、国がそのような方向を打ち出しましたので、国公立病院は競って処方せんを出すようになりました。今でも、私学の病院で処方せんを出さず、外来投薬で利益を上げ(錯覚か別理由)、入院部門の両方で利益を上げているところがありますが、殆んどの大学病院、国公立病院は医薬分業、処方せん発行になって行きました。

この処方せん発行ブームは「お上」がしたことです。病院は、単に、自分のところの経営の面から処方せんを発行に踏み切りました。その処方せん発行を受けて、資本を調達できる調剤薬局が次々と大病院前の土地を確保して行ったわけです。これが今までの処方せん発行の実態です。単に処方せん発行という現象だけを見て医薬分業の本質を言われても困ります。

医薬分業というのは、患者さんが「いつでも、どこでも、何でも」、「安くて安全に」医薬品の供給を受けられるという制度です。その制度が行き渡った時に初めて分業の良さが出るのです。単に処方せんを発行し、院内でもらった薬を院外でもらっている出始めの段階ではメリットがない、医療費が高くつくだけという流れになって来ているものと思われます。

はっきり言わせていただきますと、個々に話し合って任意で処方せんが出てきた時代から、お上の意向で、医療機関が自分のところの都合で処方せんを出すという状況が続いて来ました。当然、患者の存在しないおかしな状況にもなりかねませんが、これからどんどんと制度の確立が出来上がり、患者さんの為に薬剤師の力が発揮される事でしょう。

今回の改正で「病棟薬剤業務実施加算」が新設されました。(全病棟に専任薬剤師を配置すれば1週間ごとに100点を加算する)

病院薬剤師が入院患者の薬療を細かく管理充実して行こうとした試みです。薬療している患者の安全性と有効性を真剣に守る為、病院に於ける入院患者の薬療を病院薬剤師がどんどん実施して行こうとしています。しかし外来の患者さんの毎日服んでいる薬の薬療は一体誰が指導管理しているのでしょうか?薬を服んでいる毎日に問題が起きることが多いのに、誰も手助けせずに(特に調剤して投薬した薬剤師)薬を調剤して「ハイ!お大事に!」と『お大事に薬剤師』でいいのでしょうか?

この問題については後ほど一括してお話したいと思います。

2012/08/17(金) 00:00

全体会議講演(平成24年4月22日) のまとめ・序

 1ヶ月ほど前に福岡に行く用事がありまして、新幹線に乗ったのですが、新幹線の中に「WEDGE」という、よく読まれている雑誌が置いてありました。(2012220日発行、第24巻第3) それをめくっていますと、東京医科歯科大学医療経済学分野教授川渕孝一先生の記事が出ていました。川渕先生は経済学者ですが、私が現役の時から医薬分業については批判的でした。

その川渕先生が「日本の今の医薬分業は本当に患者のためになっているのか」という標題でお話しています。「WEDGE」に掲載されたというのは、「医薬分業の時代が、処方せん発行の時代から制度を含めた内容の時代へと移り変わり始めたのではないかな?」と直感的に感じました。帰ってきて、現役時代に知り合った仲間たちに今の流れを聞いたり、現状を見てみますと、日本医師会の会長が「医薬分業をもう一度検討し直さなければいけない」と言い出しています。薬剤師会の会長も同意はしておりませんが反論はしておりませんでした。野田首相も国会の答弁で薬の飲み残しに触れています。「これはひょっとして全国的な動きなのかな」と思いましたし、経済学者から観ると、確かに医薬分業により医療費が下がるということはないと思います。従って、それに対する費用対効果だと思います。

一人一人の薬剤師が費用に見合うだけのサービスを患者さんに与えているかどうか、見つめ直す時期に来ているのではないでしょうか。

川渕先生は、私が現役時代には、「医薬分業は高くつく、手間がかかるし、一向に良いことはない」という言い方でした。言い方は殆んど変わっていませんが、

     「本当に患者のためになっているのか」

ということが全国的に盛り上がってきている時代です。反応の多さにそのことをつくづく感じました。

そこで、その問題を改めて考えていた時に、たまたま育星会から全体会議に「創設者としての話をしないか」という要請がありました。現役の時には月に何回か医薬分業の話をするために全国を飛び回っていましたが、退職後は一切講演する事はしませんでした。現役を離れますと、頭の中の「時」が止まりますから、自信を持ってお話出来ませんでした。そういう時に話を持ってこられましたので、最初はお断りいたしました。

しかし、たまたま、育星会のホームページの巻頭で飯田社長の話を読んだ時に「あなたにやさしい薬局・薬剤師」と涙が出るほど嬉しい文字を見ました。「自分たち創設者の気持ちを受け継いでもらっているんだ!」と感じましたので、喜んでお話させていただくことに致しました。

 

私がお話したかったことは3点あります。

それは、

 

1.医科処方せん「0」の時代

2.知識と知恵

3.患者を抱きかかえた薬療(患者の目線から)

 

です。

 

 順次、このテーマについてお話したいと思います。
2012/08/10(金) 00:00