yoshio's blog

2011年1月

(株)育星会の誕生への道のり 第4章 (株)育星会設立への準備

第4章 (株)育星会設立への準備

 

吉矢会長のご講演でのご指導は大別すると以下の3つでした。

1、医療用医薬品についての知識を学ぶ事

2、来るべき時に備えて各自財力を整える事

3、医薬分業に関する知識を豊富に吸収する事

 そこで、私たちはまず全員が所属していた日本薬局協励会の大阪に青年部を設立し(部長佐久間先生)、青年部が主催して医療用医薬品の勉強会(委員長長尾先生)を開催する事に致しました。講師には、主に大学病院や診療所の先生方にお願いに行き、医師と人脈のない私には医師との人脈の基礎が出来始めました。引退した後、医師と薬剤師のお見合いをボランティアとして少しでも出来ているのは、この時の素晴らしい医師たちとの人脈の基礎が出来たからでしょう。この件については改めて書きたいと思います。

 勉強会は、当初150名ぐらいの参加者を得て毎月華々しく始まりましたが、処方せんの出回っていない当時では実践が伴わないためか、回を追うにつれて参加者が減少し、2年後には10数名になり「講師の方に失礼になる」との事で中止になりました。しかし残った10数名の人達は諦めきれず、再度次の行動に移しました。

 当時、大阪大学医学部附属病院の薬剤部に医薬品情報室(DI室)があり、室長は高杉益充先生(後の徳島大学医学部附属病院薬剤部長)でした。そこで高杉先生にお願いして、残った10数名を2名ずつの組に分け、毎日交代で勉強に行きました。病院医師からの色々な問い合わせや医療用医薬品の使われ方を見て、未知の世界への楽しい毎日でした。

 昭和4910月に処方せん発行料が50点になり、医療機関に処方せん発行の機運が出始めました。そこで15名の青年部生き残りで実際に調剤薬局を作り、実践してみようと(株)育星会を設立したわけです。

 (株)育星会への出資は、1口30万円、非常勤は2口まで、常勤者は2口以上10口までと決めました。当然常勤者でも当分無報酬を覚悟していました。

出資合計481440万円で、出資者は、川久保雅弘(堺・かわくぼ薬局)、目谷義夫(堺・八千代薬局)、佐久間秀夫(堺・スワノモリ薬局)、長尾祐吉(池田・長尾薬局)、土井一佑(神戸・布引薬局)、山田浩勝(堺・山田衛生堂薬局)、佐野一也(堺・薬局白十字)、須山隆(生野・スヤマ保健薬局)、目谷至誠(堺・白さぎ八千代薬局)、高崎春雄(堺・錦薬局)、高崎信平(河内長野・ミドリ薬局)、芝田健二(枚方・セイユー薬局)、辻庄一郎(堺・銀座薬局)、広瀬繁(大阪阿倍野・ヒロセ薬局)、山口俊夫(堺・光栄薬局)で、複数出資者の川久保、目谷()、佐久間、長尾、山田、土井、佐野のうち、川久保、目谷、長尾の3名がそれぞれの薬局を退社あるいは閉局して常勤となりました。

常勤者でそれぞれ得意な担当部門を決め、経営全般は才能に長けている川久保が社長に、処方せんの発行医を探す営業は目谷が、薬剤師の教育や調剤実務の責任は長尾が、資金繰りや借り入れ資金の保証は佐久間(非常勤)が担当する事になりました。

 処方せん発行料が50点になり処方せんの機運は高まりつつありましたが、当時は未だ処方せん発行への不安な事が多々あり、先頭切っては出していただけませんでした。どの先生方も異口同言に「目谷さん、医薬分業の時代がいよいよ来たね、でも私はまだね?・・・」でした。

 育星会の開店休業の悲しい毎日が続きました。佐久間・川久保・目谷は自分の薬局がありましたので生活は何とか可能でしたが、長尾は店を閉店して参加しましたので、会社として彼を支援しなければならず、その分、資本金の目減りが続きました

 毎日、川久保と二人で診療所を訪ね歩きながら悲しい不安な日々が続きました。

2011/01/10(月) 00:00