yoshio's blog

2011年4月

(株)育星会の誕生への道のり 第7章 3号店ミユキ薬局の誕生 

第7章 3号店ミユキ薬局の誕生

 

 そろそろ自己資本が貯まった2年後の昭和54年、「ミユキ薬局」が堺の御幸通りに出来ました。

私と熊野小学校、天王寺付属中学、天王寺高校と同窓だった谷和先生から「親の跡を継いだ診療所を年末に新築する時を契機に処方せんを出したいので近くに薬局を作ってみないか・・・医者しか出来ない仕事は僕がするが、それ以外は全てそれぞれの専門家に任せたいのや!」というのが先生の診療に対する姿勢でした。お母さんが開設している診療所を見ながら育って来た先生が、自らが病院勤務で会得した両方の良さを取り上げた診療所作りをしようとしたのではないかと思われました。

 早速、私と川久保は喜んで薬局の開設場所を探し近くに適当な場所を見つけました。しかし、大きな難問に突き当たり、結局現在の場所に変更いたしました。

 当時、谷和医院の向かい側に南大阪一の、病院のような歯科医院があり(歯科医が十数名)、その多数の歯科処方せんを既存の薬局が受けておりました。当然、私たちの薬局が出来ると、その処方せんも取りこんでしまい横取りする形になってしまいます。不幸な事に、その既存の薬局が川久保の親戚で、しかも本家筋に当たりました。すぐに川久保は呼び出され苦情を言われました。彼は向こう意気の強い男でしたから口では「気にしない!気にしない!!」と云っておりましたが、親まで巻き込む問題だから内心苦悩しておりました。

 目的以外の医院の処方せんが来ない薬局作りをしたのは、後にも先にもこれが初めてで終わりでした。

 今から考えると、育星会の株主のほとんどが堺在住の人達なのに、それ以後私個人(親の代からの薬局)の近くにある堺カイセイ以外堺市内にカイセイ薬局がないのは、その時のイヤな思いが尾を引いたのかもしれません。

 今だから既存の薬局以外の人達(MRや税理士、チェーン店など)が新しい薬局を作ってもあまり抵抗はないのですが、当時では、既存の薬局が処方せんを受けるものと大多数の薬局の人達は思っていました。そのような環境の中での店作りをしなければならなかったので、川久保とチェーン展開することを目的としてホシ、セントラル、ミユキと来た地域の薬局名を、以後、「カイセイ薬局」と統一することにしました。

谷和先生が谷和医院をお母さんから引き継いでから急速に患者さんが増え、2年も経っていないのに患者さんは100人を悠に越えました。

夜中の往診でも嫌な顔一つもせず24時間医師をしている谷和先生の姿を見て、「我が社の薬剤師はこれでいいのかな??」と川久保と考え悩んでいました。この悩みがその後の(株)育星会の大きな転換の始まりになるとは(後述)この時、まだ感じてはいませんでした。

                

2011/04/10(日) 00:00