yoshio's blog

2014年10月

吉矢佑先生と吉矢薬局の思い出

医薬分業の新たな局面を迎えていますが、この時に思い浮かぶのは恩師である吉矢佑先生、そして吉矢薬局です。吉矢先生がお亡くなりになったのは20111015日で、あと5日で丸3年となります。あっという間に3年が経ちました。

カイセイ吉矢薬局の開設は20069月です。

吉矢薬局につきましては、吉矢先生がお亡くなりになった時に、当ブログで「吉矢先生の思い出」として紹介(20111110日)しましたが、詳しく振り返りたいと思います。現在も、薬局の奥の事務室に吉矢先生の遺影を掲げ、毎月15日には吉矢先生の仏前に語りかけています。

育星会では、○○カイセイ薬局というように地域名の後にカイセイ薬局を付けていますが、「吉矢薬局」という名称をどこかに残したいとの吉矢先生の思いから、「カイセイ吉矢薬局」としました。

 

吉矢先生から「長年開局してきた吉矢薬局を閉鎖することに決めた。周辺の高齢医師が閉院することもあり、私も健康上今後続けてやっていける自信はない」との手紙を頂いたことがきっかけでした。

私に手紙が届いた時点では、吉矢先生は既に関係方面に閉局のお考えを伝え始められておられ、医師にもお話をされたということで、挨拶状等閉局の計画もすでに九分九厘進んでいました。

そこで、「ちょっと待ってください。お手伝いできることがあればお手伝いしたい」とお話し、「医薬分業に生涯をかけた自分が絶えずお伺いしご指導していただいた吉矢薬局の吉矢部屋を何とか残したい」という強い思いから、()育星会の飯田社長さんに相談し、在宅に関する北部の拠点に出来るとの飯田社長さんの判断で薬局の継承を引き受けていただきました。そのことを吉矢先生に申し上げると、大変喜ばれ、「店名に吉矢薬局の名を残したい」と申し上げると、なお一層喜ばれたことが印象に残っています。

また、吉矢先生のお孫さんが薬剤師で、製薬企業に勤務されていましたし、夫人も薬剤師でしたので、「いずれ『薬局に帰りたい』と思われることがあるかも知れない」と考え、吉矢先生の跡を継いでいただきたいと思っておりましたので、「必要があれば何時でもお返しいたします」と申し上げ、条件を付けてお引受けすることになりました。

吉矢先生は全国的な存在で、全国各地から訪ねて来られる方が沢山おられますので、ビルの2~3階のご自宅にわざわざ上り下りしていただくこともお気の毒だろうと考え、それまで事務所として使われていた1階の店の奥の部分をそのまま残すよう店舗設計を行い、事務所として使っていただくようにしました。後々聞いた話では、このことも大変喜んでいただいていたようです。

吉矢先生は、店舗改装中も2~3階のご自宅で生活されていました。かなりの騒音ですので、建設会社が「建設中はホテル住まいを」と勧めましたが、「近所の方にはかなりの騒音でご迷惑をおかけしているので、『皆様も騒音でご迷惑でしょうが、私はそんな中で生活しているのです』と話せばお許しいただけると思う」と言われて、ご自宅での生活を貫かれました。この辺りも吉矢先生らしいエピソードだと思います。

私が若い時は、時折吉矢薬局をお尋ねし、いろいろとご指導を頂き、ご意見を拝聴しました。それらの吸収したものが身となって、私自身がいろいろな場でお話ししたり講演したりすることができるようになりました。

吉矢薬局での思い出となりますと、数々のものがありますが、何の経歴もない私が叙勲(2011年)の栄に浴したり、日本薬剤師会賞(2007年)を頂戴することになった決定的な出来事が吉矢薬局での吉矢先生とのお話です。

叙勲に関しましては、吉矢先生とダブル叙勲とお聞きしておりましたので若干安心しておりましたが、吉矢先生は辞退されたとお聞きしましたし、私自身は、そのような栄誉に値する仕事や活動はしていないと思っておりましたので、「お断りしよう」と考え、吉矢先生のところへ相談に伺いました。その時に、吉矢先生がご自身のエンディングノートを示されました。(結果的に、このノートを拝見したことで、吉矢先生はご自分の葬儀を近親者のみで済ませるよう書かれていることを見ることになり、実際にお亡くなりになってお身内で葬儀が営まれるときに、私や児玉孝先生、岡本彰先生などごく一部の者のみが参列することができました)

吉矢先生のエンディングノートには、A42枚にわたって、ご自身の履歴・活動歴がズラリと書かれておりまして、吉矢先生が如何にご活躍してこられたかが如実に解ります。それに比較して私はわずかばかりです。「君の履歴はいくら頑張っても数行ほどしかない。職歴のない君の実績を認めて大阪府薬剤師会や日本薬剤師会が推薦しよう努力をしてくれているのだから、その人たちの行為を忘れてはいけない。素直に受けなさい」と言われました。

日本薬剤師会賞は、神戸で開催された日本薬剤師会学術大会での表彰式で受賞者の略歴が紹介されたのですが、皆さんはそうそうたる履歴や活動実績等をお持ちなのに、私はわずかしかなく、「何故受賞できるのだろう」と思っておりました。吉矢先生も、叙勲に対して「自分自身だけでなく、薬剤師会、薬剤師会員のために努力してきたが、お上のために働いてきたことはないので、お上から叙勲を受ける謂れはない」とおっしゃっていましたが、私自身は、「薬剤師会のために何をしてきたのか」という点で誇れるものは何もありませんでした。

私がお伺いした翌日、吉矢先生はご自宅の階段で転ばれ、ご子息が教授をされていた兵庫医科大学に搬送されましたが、そのまま帰らぬ人となられました。私は前日にお会いしたばかりでしたので、強い印象が残っており、忘れられない思い出です。

振り返りますと、吉矢薬局は、私たち若手薬剤師にとっては吉矢学校の校舎のようなものでした。吉矢薬局の建物は、船の先端のような三角形の形で、1階が店舗でしたので、決して大きな店舗ではありませんでしたし、1階の奥の事務所も、2階、3階のご自宅も狭かったのですが、吉矢先生の活動の拠点でした。

私は、現在でも毎月1回、月命日に訪れています。吉矢先生の時代とは様子も全く変わっていますが、その薬局を残すことができたことは喜んでいます。大阪のJR環状線福島駅前で、車窓や駅のホーム端からも見ることができますので、近くにお出での時は「カイセイ吉矢薬局」に是非お立ち寄りください。

2014/10/10(金) 09:00