yoshio's blog

2011年11月

寄り道Ⅲ 恩師 吉矢佑先生の思い出

元大阪府薬剤師会会長、元日本薬剤師会会長の吉矢佑先生がお亡くなりになりました。

育星会の歴史を考える時、昭和46年頃、奈良の国際ホテルで開催された薬局協励会の研修会における吉矢佑先生のご講演がきっかけとなったことは、第1章でも触れましたが、今日の株式会社育星会があるのは吉矢先生のお陰であると申し上げても過言ではありません。

ご講演を聴き、医薬分業に関する興味を持ちましたので、吉矢先生に「私は今後どうすれば良いのか」と聞きに行きました。その時に、吉矢先生は、「まず一つは医療用医薬品について勉強しなさい」と言われました。そして「もう一つは、医薬分業といっても資金が必要です。街の薬局で資金がなかったらついていけない。そのため、薬局の中である程度金銭的にゆとりを創っておきなさい」ということでしたので、その通りに実行しました。

そして、数ヵ月後に、吉矢先生に呼ばれました。「実は、目谷さんを大阪府薬剤師会の理事にとの推薦があったのですが、僕はまだ早いと答えました」と言われるのです。その理由として、「現在、堺薬剤師会は非常に混沌として、大阪府薬支部の中で最も大きい支部なのに、その力が発揮されていない。そのため、出来るだけ早く若い力で統一し、一致団結した力強い薬剤師会になるよう頑張りなさい」と、まずは堺で頑張るように言われました。

そこで、気の合った若い薬剤師が集まり、堺薬剤師会の理事になり、仲間を呼び寄せて、古い先生(中井先生、門田先生、大友先生)を会長に戴き、その下で若い薬剤師が主力になって活動するという体制を築きました。数年後、組織が固まり、古い先生方にも気持ちよく協力していただけるようになりました。

ある程度堺薬剤師会がまとまった時期に、大阪府薬の副会長であった岡本先生から大阪府薬の理事に就任するよう要請されました。そこで、堺薬剤師会とともに大阪府薬剤師会の理事に就任しました。その時は、吉矢先生はご病気で一時会長を退いておられましたが、私自身には吉矢先生の影響が強かったので、大なり小なり、いろいろとご相談に伺い、ご指導を仰ぎました。

日本薬剤師会の代議員にもなり、日本薬剤師会全体を見るようになりましたが、その時にも、いつも新幹線の行き帰りに、吉矢先生の隣に座らせていただき、いろいろとご指導を受けました。育星会を立ち上げ、新しい店舗を作るたびに、あるいは方針を転換するたびに、吉矢先生にアドバイスを受け、素晴らしいご意見とご見識をいただきました。

私が引退した後も、何ヶ月に1回かは吉矢先生をお訪ねし、先生のご壮健の様子を拝見しながら、お話をお聞きしました。それが今日まで続いておりました。

その後、私自身、体調を悪くして1ヶ月ほど入院したのですが、退院して自宅へ帰りますと、吉矢先生から手紙が届いていました。内容は、「長年開局してきた吉矢薬局を閉鎖することを決めた。高齢の医師が閉院することもあり、私も今後続けてやっていける状態ではない」と書かれていました。びっくりして、退院早々ではありましたが、吉矢先生のところへ飛んでいきました。関係方面にすでに手紙を出し始めておられ、医師にもお話をされたということで、閉局の計画も準備もすでに出来上がっていました。

そこで、「ちょっと待ってほしい。お手伝いできることがあればお手伝いしたい」と話しました。しかし、その時は、既に私自身引退した身でしたので、独断で判断するわけには行かず、それでも、「自分が育った土壌を何とかしたい」という強い思いがありまして、飯田社長さんに相談し、同道していただき再度吉矢先生をお訪ねしました。飯田社長さんにも、会社として冷静に判断してもらおうと考えていました。

育星会では、会社として在宅に力を入れている中で、拠点が東大阪の長田だけしかなく、北部に拠点がほしいと考えていた時でしたので、飯田社長さんは「吉矢薬局を北部の拠点に出来る」と考え、また、駅前という立地から、医院が閉院しても「すぐに新しい医院が出来るだろう」と考え、それほど心配する必要はない、薬局を継続しても良いとの判断でした。

そのことを吉矢先生に申し上げると、大変喜ばれ、カイセイ吉矢薬局が誕生しました。平成189月のことです。「吉矢薬局の名を残したい」と申し上げると、先生は非常に喜ばれたことが印象に残っています。「必要があれば何時でもお返しいたします」という条件を付けてお引受けすることになりました。

そして、吉矢先生は全国的な存在で、全国各地から訪ねて来られる方が沢山おられますので、ビルの2~3階のご自宅にわざわざ上り下りしていただくこともお気の毒だろうと考え、それまで事務所として使われていた1階の店の奥の部分をそのまま残すよう店舗設計を行い、事務所として使っていただくようにしました。後々聞いた話ですが、このことも喜んでいただいていたようです。

吉矢先生は、店舗改装中も2~3階のご自宅で生活されていました。かなりの騒音ですので、建設会社が「騒音が激しい数日間だけでもホテルに泊まられたらどうですか」と勧めましたが、「近所の方にはかなりの騒音でご迷惑をおかけしているので、『皆様も騒音でご迷惑でしょうが、私はそんな中で生活しているのです』と話せばお許しいただけると思う」と言われて、ご自宅での生活を貫かれました。この辺りも吉矢先生らしいエピソードだと思います。

吉矢先生は、土曜日の朝に亡くなられたのですが、私は、その直前の木曜日にお訪ねしました。川久保会長が亡くなられた日もそうでしたが、自分自身、何かを感じたのかという確信はありませんが、吉矢先生はお元気でした。しかし、いつものお話と違って、自分の死後のプランを持ってこられました。戒名とか葬儀とかの話をされ、葬儀は2親等までの家族葬とすることなどのお話をいただきました。その時は、私自身非常に驚き嫌な予感を感じましたが、吉矢店の店長などにもこの話はしていたようですので、安心して帰りました。しかし、私自身は初めてのお話でしたので、何となく不安な気持ちでした。いつもは、1時間ほどでお暇するのですが、その時は2時間半もお話をされました。

そして、土曜日の昼に店長から自宅に電話があったのですが、「吉矢店の店長から電話です」と聞いただけで嫌な予感がして急いで電話口に出ました。「吉矢先生に何かあったの?」と聞くと、「今朝亡くなられました」という報で愕然とし、びっくりしてすぐにお伺いしました。

私は、川久保雅弘、吉矢佑という大切な2人を失いましたが、奇しくも、川久保会長の場合は亡くなる日の午前中に面会し手を握ることができ、吉矢先生には倒れられた1日前に会うことができました。大切な人を亡くしましたので、私のことを心配して励ましの連絡をいただける友人が沢山いましたが、それほど私自身にとって大切な人でした。

縁と言いますか、私の人生において3人の大きな存在があります。まず、私を教え育て、この道に導いていただいた吉矢佑という恩師を知り得たこと、そして、良き友であり、良きライバルであった川久保雅弘を得て共に苦労が出来たこと、そして飯田彰という素晴らしい後継者を得たことです。特に、吉矢佑先生は、家内も娘も、その名前が出ると直立不動になります。吉矢先生とのエピソードは書き出したら限がありませんが、魅力的な人でしたし特別の存在でした。

2011/11/10(木) 15:29