yoshio's blog

2011年3月

★寄り道Ⅰ(川久保君との別れ)

 「川久保」、呼び捨てで呼んでも、「ニコイチ」を自認していた彼と私の間柄からすれば許してもらえるだろう。

  平成14年の年末、川久保は奥さんを連れてタイへ旅行に行きました。その時、体調が悪く帰阪後すぐに胃腸専門病院へ入院しましたが芳しくなく、娘婿(内科医)の紹介で岸和田市民病院へ転院しました。そこで彼は膵臓がんだと診断され、それ以後苦しい1年余りの闘病生活が始まりました。まず、すぐにガン専門の大阪府立成人病センターへ入り、放射線治療と内服治療に専念しました。

  体格はやせ衰え病人らしくなりましたが、彼独特の精神は衰えず、色々なガンの雑誌を読み漁って膵臓がんの新しい治療に挑戦したがりました。毎日のようにインターネットで資料を取り持参して検討しました。まずアメリカのボルチモア州にあるジョンズ・ホプキンス病院で治療したいとの事でしたので、そこから私の準備が始まりました。

 日本のホプキンス病院の連絡事務所と連絡を取り、内容を確認しました。同病院には日本語の出来るスタッフが沢山居り、入院中も含め安心できました。次に、飛行機は同乗する医師やその他のスタッフを含め思った以上の人数が必要だという事が判りました。しかし、その時主治医からの紹介で北海道の時計台病院での「導管治療」を勧められ、彼は急遽行くことにました。導管治療とは、端的に言えば膵臓へ通っている血管の中から、一箇所の血管を通して病巣部位に制癌剤を直接導入する治療方法だと聞いております。内服と違い制癌剤の副作用が少ないというのが特性でした。彼は早速奥さんに付き添われ時計台病院へ入院しました。

 彼は「絶えず見舞いに来い」とは言いませんでしたが、「会社は飯田君(当時の専務・現社長)に任せていたらオマエはすることないやろう・・・」と彼の独特の毒舌で暗に顔を見せる事を望みました。私も意を得たりと毎週一度は札幌へ通うようにしました。食いたいと言う食べ物をトランクに詰めて運びました。知り合いのいない遠い地の北海道で入院していると、顔を見たときは何とも言えないほど嬉しそうな顔をしますが、暫くすると「オマエ何でまだ居るんや!」と言うので、「飛行機の乗る時間があるんで時間待ちしているんや!」と言い返しますが、「帰るわ」と言うと一瞬悲しそうに顔が曇りました。でも、今から考えるとこの三ヶ月は夫婦二人の思い出に残る貴重な三ヶ月だったのではないかと思います。

 導管治療も遅すぎたとの事で、期待していたほどの効果も得ず退院する事になりました。

  帰阪して来た時、伊丹空港の到着口から車椅子で出て来た彼を育星会とJOVYの社員たちが花束を持って沢山で出迎えに来ていたのには、全く聞いていなかったのでビックリしました。

 彼が如何に社員たちから慕われていたかを嬉しくもあり感嘆もしました。

  帰阪後、飯田君のお世話で自宅近くの近大附属病院へ入院しました。

  入院後は症状も芳しくなく、日に日に衰退して行くのが判りましたので、彼の顔を見てから会社に出勤する事にしました。

 近大病院では数ヶ月の闘病生活でしたが、彼は決して弱音を吐きませんでした。いつ行っても二人で言い合った昼食時の雰囲気のように強気でした。

 ところが一週間ほど物言わぬ日が続いたある日、いつもの様に彼を訪ねると、彼はベッドで真面目な顔でこう言いました。「今まで何回かアチラ(天国)へ出向いて行ったが、いつも満員だと追い返されたけど、今度は席が二つ空いていると言っているからオマエも一緒に行かへんか?」と。私は言いました。「アチラまでオマエの面倒見るのはイヤヤわ!!」、そうすると彼は「そうやなあ~~オレもアチラでオマエの面倒見るのはこりごりやわ!!」。

  病院を出て会社に着いたと同時に奥さんから電話がありました。「主人が亡くなりました」と・・・・。平成1621日のことです。合掌!

2011/03/15(火) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第6章 2号店セントラル薬局の誕生 

6章 2号店セントラル薬局の誕生 

 

 心斎橋の四ツ橋筋にセントラルビルがあり、2号店はその2階に開設いたしました。昭和53年です。借り入れを起こさず自己資本だけで店を作る・・というのが我々の信条でしたから、役員はほとんど給与を取らず2年間頑張り、何とか自己資本を貯めて開設する事が出来ました。1号店で良い教訓を得ましたし、まだ大きな借り入れが出来るほど資力を持ち合わせておりませんでしたので、無理をせずに自己資本で出来る店を作りました。

主に同じ階にある大平医院からの処方せんでした。大平先生は循環器専門で一人一人時間を掛けて丁寧に診ておられましたから、処方せんは少なかったですが、患者さんの多くは医師またはその縁者の方が多く、循環器では相当著名な先生でした。四人の長尾・中野・渡辺・飯田の薬剤師たちは息つく暇もなく勉強させられました。(しかし、ここで知り合った結果、育星会では初めての社内結婚の誕生という嬉しい出来事もありました)

 セントラルが軌道に乗っていたある日、薬局で大きなミスをしました。大平先生に大変なご迷惑をお掛けしましたので川久保社長が謝りに行きました。

大平先生は「君たちの会社は謝り方も知らないのか!」と言って激怒され、「信用できないから処方せんは明日から止める」と言われました。私は東京へ行っておりましたが急遽帰阪し、嫌がる川久保社長を説得し、夜中でしたが宝塚の先生のご自宅まで謝りに行きました。雪の降る寒い夜でしたが、朝まで門を開けてはいただけませんでした。翌日診療所に朝駆けしお詫びに行きました。

前夜ご自宅にお伺いしたお話をし、川久保社長がピョコンと頭を何度も下げて「スミマセンでした」と謝り、やっとお許しをいただきました。

診療所を出た時、川久保社長の目がうっすらと潤んでいました。喜びの涙だとばかり思っていましたら、悔しさの涙でした。彼は生涯謝る事の大嫌いな男でした。「スミマセン!」とは言いますが、大きな目をギョロ!と剥いてフテブテシイ態度で謝ります。

その時、「この男には生涯謝らせる事はさせまい」私は心にそう決めました。

彼が謝らずに前へ進む事は私が前へ進む事であり、彼が謝って後退する事は私が後退する事になる事を察した出来事でした。

以後30数年間、必ず昼食を共に致しました。お互いの意見の違いは、この二人だけの時に激論を飛ばし合いました。お互い暗黙のうちに社内では言い合いを避けていました。お互い腹が立って物も言わずに別れることも多々ありました。お茶をしている周囲の人から「ヤカマシイ!!もう少し静かにしゃべっていただけませんか!!」と注意された事も多々ありました。しかし、あくる日になると、自分の意見を通す時は「きのうはスマンかったのぉ~・・。チョット言い過ぎたかなぁ~~」なんて大きな目を細めて謝っているように見えますが、じつは二人の意見として決定された会社の方針の8割は残念ながら彼の意見でした。フォローが完璧で自分の意を通して行く彼独特の人間性と頭脳の素晴らしさの一端です。

 

2011/03/10(木) 00:00