yoshio's blog

全体会議講演(平成24年4月22日) のまとめ1・医科処方せん0(ゼロ)の時代

1.医科処方せん0(ゼロ)の時代

私が医薬分業の夢を持って店頭に立った時は、医科の処方せんは全く0枚の時代で、それが薬局では当たり前の時代でした。従って、11~2枚来る歯科の処方せんを一枚一枚大切に扱って来ました。一枚の処方せんを大事に扱って、感謝され、その患者さんがまた来てくれるように、また家族も連れて来てくれるように、徹底的に患者さん側に立って親切に優しくしました。同時に良し悪しは別にして、若いから出来たのでしょうが、処方せん発行の可能性の有る医師に対しても米搗きバッタ(ショウリョウバッタの別名)のように頭を下げまくり一生懸命コンタクトを取ろうと致しました。そのような時代でした。

それは、何百年も分業の歴史が続いているヨーロッパと違って、日本では、薬師(くすし)という昔からの歴史があった中で、明治以降に新しい制度が出来たわけですから、それほど急に変わるわけでもありませんし、そういう時代背景があって、そのような状況の下で育星会が出発したと云うことです。(この時の出発前後はブログに書きました)

昭和49年に処方せん発行料が50点になった時に、育星会も出来ました。それ以前はどんな状態だったかと少し触れてみますと、みなさん想像できないでしょうが、私の店の八千代薬局は親父が経営していましたが、私が阪大病院の研修を終わって店に戻り、医薬分業に取り組もうとしました。ところが、薬局はちり紙と洗剤とOTCの薬だけで、処方せんは歯科の処方せんが1週間に何枚か来る程度です。医科の処方せんなんか親父共々1回も見たことがありませんでした。親父は気性の真っ直ぐな方で一面学者でもありましたので、〔分業以外薬剤師の存在は有り得ない〕と一生懸命薬学生の私に説いていました。しかし、自分の代には分業を実現できず、辛い思いをしていました。

そこで、「私が医科処方せんの来る八千代薬局を創りましょう」と言って、周辺の医療機関20軒ほどを毎月1回訪問するように回り始めました。育星会ができる前の話ですが、殆んどの医療機関では取り合ってはいただけませんでした。何故なら、薬は100個買えば100個の添付、サービスが付く時代です。ですから医師は薬を手離す気はありません。従って、訪問する事は、薬剤師は医師の利益を取りに来ている者と曲解されました。

例えばある診療所を訪問した時に、「あなた方は4年制でしょ。4年間で解剖学を習いましたか?」と聞かれ、「習っていません」と答えますと、「解剖学を習っていない人が、専門家だと言って薬を出されるのは困る。我々の方がよく知っている。そのような人に薬を渡すのは非常に不安だ」という先生もおられました(この時の思いが後々6年制への運動に繋がります)。中には、2度目に訪ねて行きますと、看護婦さんが「八千代薬局の目谷先生お見えになりましたよ」と言うと、診察室にはおられた先生が、「薬屋さんか、おらへんと言って断ってくれ」という声がしました。悔しくて悔しくてその夜は眠れませんでした。あまりの悔しさに、夜中にうなされて飛び起きましたので、家内がびっくりして、「何があったの?」と聞くくらいでした。

私は薬剤師だと思ってお伺いしているのですが、世間では「洗剤やちり紙を売るクスリヤさん」です。そのような時代に八千代薬局に戻ったものですから、薬剤師としての夢が崩れて行く毎日でした。

しかし、回っているうちに、ある1軒の先生が、「病院から帰ってきた患者さんが、『病院でこの薬を飲みなさい』と言われて来たがうちにはその薬がない。そのような場合だけ処方せんを出しても良いか」と言われました。それで、「有り難う御座います」と申し上げ、早速処方せん用紙を持って行き、レセプトの書き方なども説明しました。暫くするとその診療所から処方せんが1枚来ました。

今から思い出しますと、嬉しくて嬉しくて涙が出るほどでした。その処方せんをすぐに「額」に入れて、その左側の余白部分に自分の嬉しい気持ちと医薬分業への熱意を書こうと思いましたら、親父が自分に書かせろと言います。親父は達筆でしたので、僕の考えた文章を親父に書いてもらい、それを持って右側の余白部分に処方せんを発行した先生にお気持ちを書いていただこうと診療所へ行きました。「初めて見る医科の処方せんですので、記念に調剤室に置いておき、毎日感謝しながら調剤したいと思います」と申し上げました。そうすると、先生は非常に感激していただきまして、「薬剤師はそんなに医薬分業の事に夢を持っているのか!」と言われ、処方せんの右側の空白欄に「これだけ感激されるとは思わなかった。私も嬉しい」と書いていただいたと思ったら、数日後から処方せんが一挙に出始めました。それほど患者さんが多い医院ではありませんでしたので、110枚ほどでしたが、とても嬉しくてやり甲斐のある毎日を過ごしました。

親父が月末にレセプトをまとめながら、「薬剤師になって死ぬまでに1度で良いから処方せんの束を見たかった」と言いまして、毎日、処方せん11枚を丁寧に確認して、請求も全部親父がしていました。そういう時代でした。ですから、余談になりますが、親父が亡くなった時に、私は、5年経過した処方せんのコピーをポケットに入れて、葬儀場で棺の中にお花を並べる時に、ポケットから処方せんのコピーを出して一緒に親父の手元に置きました。物凄く喜んで成仏して行ったのではないかと思っています。

そして、その後、川久保・佐久間・長尾君という良い相棒に出会い、いよいよ会社を創るということになったのです。

処方せん料が50点となって処方せんが出始めましたが、医療機関を訪問し、よく話し合って、その先生と充分な相互理解を得てからマンツーマン分業を始めました。充分な話し合いもせずに分業を始めますと、マンツーマンの場合、毎日の事ですので、後々になって医師や調剤する薬剤師との間で患者を挟みトラブルが起こり困ることがよくあります。ですから、お互いよく理解できるまでは慌てて進めませんでした。「患者さんをどのように見ておられるか」が重要な共通点でした。

 

資料の「処方せん受け取り率の推移」を見ていただきますと、昭和49年に50点となって処方せんが少しずつ増えてきます。「処方せんを出そう」と初めから思っておられた先生は、薬の利益があろうとなかろうと、「医師が投薬するということは将来なくなって行くだろうし、薬価差も縮小の方向だし、診療所内での院内調剤に不安を感じ、処方せんを出していこう」と考えられる先生が少しずつ増えてまいりました。その先生方とゆっくりお話し、お互い納得が出来た時点で、「それでは前に薬局をつくりましょう」と門前に調剤薬局をつくって行きました。

ところが、平成6年に急激に処方せんが伸びています。国は入院調剤技術基本料として、病院薬剤師が入院患者を訪問して薬のことを説明するということに対して点数をつけました。最初は1ヶ月に1100点、ベッド数は300床以上という条件でした。それが改定毎に増額しまして、平成6年の4回目の改正の時には薬剤管理指導料という指導という考え方になり引き上げられ、平成8年には450点に麻薬の50点がプラスされ、500点となりました。それに月2回もらえるようになりました。つまり月1000点近い額になりました。しかも、ベッド数の規制がなくなり、薬剤師が2名いればOKとなりました。

そうしますと、病院の薬剤師が患者を訪問して薬の服用について説明すると1ヶ月1万円近くもらえます。病院の調剤室では殆んどフィーがなくて、診療報酬の面で薬剤師による収入が少ないという形でしたから、薬剤師はできるだけ病棟の方に行こうということになりました。本来なら、薬剤師を補充して、院内調剤をしながら病棟に回したらよいのですが、薬剤師が足りませんので、なかなかうまくいきません。ですから、「一斉に処方せんを出して、外来調剤はしない。その代わり、その薬剤師を全部病棟に回す」という方法の方が利益の面では納得できます。

そこで、国がそのような方向を打ち出しましたので、国公立病院は競って処方せんを出すようになりました。今でも、私学の病院で処方せんを出さず、外来投薬で利益を上げ(錯覚か別理由)、入院部門の両方で利益を上げているところがありますが、殆んどの大学病院、国公立病院は医薬分業、処方せん発行になって行きました。

この処方せん発行ブームは「お上」がしたことです。病院は、単に、自分のところの経営の面から処方せんを発行に踏み切りました。その処方せん発行を受けて、資本を調達できる調剤薬局が次々と大病院前の土地を確保して行ったわけです。これが今までの処方せん発行の実態です。単に処方せん発行という現象だけを見て医薬分業の本質を言われても困ります。

医薬分業というのは、患者さんが「いつでも、どこでも、何でも」、「安くて安全に」医薬品の供給を受けられるという制度です。その制度が行き渡った時に初めて分業の良さが出るのです。単に処方せんを発行し、院内でもらった薬を院外でもらっている出始めの段階ではメリットがない、医療費が高くつくだけという流れになって来ているものと思われます。

はっきり言わせていただきますと、個々に話し合って任意で処方せんが出てきた時代から、お上の意向で、医療機関が自分のところの都合で処方せんを出すという状況が続いて来ました。当然、患者の存在しないおかしな状況にもなりかねませんが、これからどんどんと制度の確立が出来上がり、患者さんの為に薬剤師の力が発揮される事でしょう。

今回の改正で「病棟薬剤業務実施加算」が新設されました。(全病棟に専任薬剤師を配置すれば1週間ごとに100点を加算する)

病院薬剤師が入院患者の薬療を細かく管理充実して行こうとした試みです。薬療している患者の安全性と有効性を真剣に守る為、病院に於ける入院患者の薬療を病院薬剤師がどんどん実施して行こうとしています。しかし外来の患者さんの毎日服んでいる薬の薬療は一体誰が指導管理しているのでしょうか?薬を服んでいる毎日に問題が起きることが多いのに、誰も手助けせずに(特に調剤して投薬した薬剤師)薬を調剤して「ハイ!お大事に!」と『お大事に薬剤師』でいいのでしょうか?

この問題については後ほど一括してお話したいと思います。

2012/08/17(金) 00:00