yoshio's blog

吉矢佑先生と吉矢薬局の思い出

医薬分業の新たな局面を迎えていますが、この時に思い浮かぶのは恩師である吉矢佑先生、そして吉矢薬局です。吉矢先生がお亡くなりになったのは20111015日で、あと5日で丸3年となります。あっという間に3年が経ちました。

カイセイ吉矢薬局の開設は20069月です。

吉矢薬局につきましては、吉矢先生がお亡くなりになった時に、当ブログで「吉矢先生の思い出」として紹介(20111110日)しましたが、詳しく振り返りたいと思います。現在も、薬局の奥の事務室に吉矢先生の遺影を掲げ、毎月15日には吉矢先生の仏前に語りかけています。

育星会では、○○カイセイ薬局というように地域名の後にカイセイ薬局を付けていますが、「吉矢薬局」という名称をどこかに残したいとの吉矢先生の思いから、「カイセイ吉矢薬局」としました。

 

吉矢先生から「長年開局してきた吉矢薬局を閉鎖することに決めた。周辺の高齢医師が閉院することもあり、私も健康上今後続けてやっていける自信はない」との手紙を頂いたことがきっかけでした。

私に手紙が届いた時点では、吉矢先生は既に関係方面に閉局のお考えを伝え始められておられ、医師にもお話をされたということで、挨拶状等閉局の計画もすでに九分九厘進んでいました。

そこで、「ちょっと待ってください。お手伝いできることがあればお手伝いしたい」とお話し、「医薬分業に生涯をかけた自分が絶えずお伺いしご指導していただいた吉矢薬局の吉矢部屋を何とか残したい」という強い思いから、()育星会の飯田社長さんに相談し、在宅に関する北部の拠点に出来るとの飯田社長さんの判断で薬局の継承を引き受けていただきました。そのことを吉矢先生に申し上げると、大変喜ばれ、「店名に吉矢薬局の名を残したい」と申し上げると、なお一層喜ばれたことが印象に残っています。

また、吉矢先生のお孫さんが薬剤師で、製薬企業に勤務されていましたし、夫人も薬剤師でしたので、「いずれ『薬局に帰りたい』と思われることがあるかも知れない」と考え、吉矢先生の跡を継いでいただきたいと思っておりましたので、「必要があれば何時でもお返しいたします」と申し上げ、条件を付けてお引受けすることになりました。

吉矢先生は全国的な存在で、全国各地から訪ねて来られる方が沢山おられますので、ビルの2~3階のご自宅にわざわざ上り下りしていただくこともお気の毒だろうと考え、それまで事務所として使われていた1階の店の奥の部分をそのまま残すよう店舗設計を行い、事務所として使っていただくようにしました。後々聞いた話では、このことも大変喜んでいただいていたようです。

吉矢先生は、店舗改装中も2~3階のご自宅で生活されていました。かなりの騒音ですので、建設会社が「建設中はホテル住まいを」と勧めましたが、「近所の方にはかなりの騒音でご迷惑をおかけしているので、『皆様も騒音でご迷惑でしょうが、私はそんな中で生活しているのです』と話せばお許しいただけると思う」と言われて、ご自宅での生活を貫かれました。この辺りも吉矢先生らしいエピソードだと思います。

私が若い時は、時折吉矢薬局をお尋ねし、いろいろとご指導を頂き、ご意見を拝聴しました。それらの吸収したものが身となって、私自身がいろいろな場でお話ししたり講演したりすることができるようになりました。

吉矢薬局での思い出となりますと、数々のものがありますが、何の経歴もない私が叙勲(2011年)の栄に浴したり、日本薬剤師会賞(2007年)を頂戴することになった決定的な出来事が吉矢薬局での吉矢先生とのお話です。

叙勲に関しましては、吉矢先生とダブル叙勲とお聞きしておりましたので若干安心しておりましたが、吉矢先生は辞退されたとお聞きしましたし、私自身は、そのような栄誉に値する仕事や活動はしていないと思っておりましたので、「お断りしよう」と考え、吉矢先生のところへ相談に伺いました。その時に、吉矢先生がご自身のエンディングノートを示されました。(結果的に、このノートを拝見したことで、吉矢先生はご自分の葬儀を近親者のみで済ませるよう書かれていることを見ることになり、実際にお亡くなりになってお身内で葬儀が営まれるときに、私や児玉孝先生、岡本彰先生などごく一部の者のみが参列することができました)

吉矢先生のエンディングノートには、A42枚にわたって、ご自身の履歴・活動歴がズラリと書かれておりまして、吉矢先生が如何にご活躍してこられたかが如実に解ります。それに比較して私はわずかばかりです。「君の履歴はいくら頑張っても数行ほどしかない。職歴のない君の実績を認めて大阪府薬剤師会や日本薬剤師会が推薦しよう努力をしてくれているのだから、その人たちの行為を忘れてはいけない。素直に受けなさい」と言われました。

日本薬剤師会賞は、神戸で開催された日本薬剤師会学術大会での表彰式で受賞者の略歴が紹介されたのですが、皆さんはそうそうたる履歴や活動実績等をお持ちなのに、私はわずかしかなく、「何故受賞できるのだろう」と思っておりました。吉矢先生も、叙勲に対して「自分自身だけでなく、薬剤師会、薬剤師会員のために努力してきたが、お上のために働いてきたことはないので、お上から叙勲を受ける謂れはない」とおっしゃっていましたが、私自身は、「薬剤師会のために何をしてきたのか」という点で誇れるものは何もありませんでした。

私がお伺いした翌日、吉矢先生はご自宅の階段で転ばれ、ご子息が教授をされていた兵庫医科大学に搬送されましたが、そのまま帰らぬ人となられました。私は前日にお会いしたばかりでしたので、強い印象が残っており、忘れられない思い出です。

振り返りますと、吉矢薬局は、私たち若手薬剤師にとっては吉矢学校の校舎のようなものでした。吉矢薬局の建物は、船の先端のような三角形の形で、1階が店舗でしたので、決して大きな店舗ではありませんでしたし、1階の奥の事務所も、2階、3階のご自宅も狭かったのですが、吉矢先生の活動の拠点でした。

私は、現在でも毎月1回、月命日に訪れています。吉矢先生の時代とは様子も全く変わっていますが、その薬局を残すことができたことは喜んでいます。大阪のJR環状線福島駅前で、車窓や駅のホーム端からも見ることができますので、近くにお出での時は「カイセイ吉矢薬局」に是非お立ち寄りください。

2014/10/10(金) 09:00

いよいよ本物の薬局・薬剤師時代がやってくる

分業元年(昭和49年)から40年余りが経過しました。その歴史を手探りしてみたいと思います。

 

私自身、業界から離れて10年が経過しましたが、昨年9月に大阪で開催された日本薬剤師会学術大会に久しぶりに参加しました。

この中で話題となったのが鈴木日本医師会常任理事の講演です。講演では、現在の医薬分業を称して、「母屋(医師)が粥をすすっているのに、離れ(薬剤師)はすき焼きを食っている」と強調されました。その場で聞いていた薬剤師たちからは、空虚な溜息と強いブーイングの響きが出ていましたが、どうした訳か、私には感慨深くて、「いよいよ始まったか!」と思う感情が湧き上がり、今回の調剤報酬の改定を楽しみに待っていました。

最近多発している、多方面からの医薬分業批判に対して、薬剤師や薬剤師会幹部の人たちの腹立たしさも解らないわけではないのですが、今回の講演内容や分業批判を抵抗せず「全面的に肯定」した時に、初めて薬局・薬剤師の新しい道が開かれて来るように感じられます。私には、世界の文明国家の中では遅ればせながら、バッシングを受けて苦しみながら進む日本の医薬分業制度が、定着への難しさと患者を抱きかかえた新しい薬局・薬剤師の苦難時代の幕開けを痛切に感じていました。

私が大学を卒業して薬業界に初めて足を踏み入れた時、故稲森芙美先生(当時大阪府薬剤師会理事、大阪で数少ない調剤薬局を経営)から、「日本の医薬分業制度は既得権からのいろいろな抵抗を受けながら進むから、欧米の医薬分業制度とは異なり、出来上がれば、世界に類を見ないような素晴らしい制度が出来上がるよ!」と言われたことを思い出します。

現役時代、医療経済研究機構や社会医療研究所等を通じて医療機関(特に民間病院)の変革に参加させていただいた私には、20年程前に始まった病院改革の流れの中で、社会からのバッシングを真摯に受け止めて努力した病院、あるいは裏技ばかり考えながらも努力した病院、ほとんど努力もしなかった病院、が現在どのような病院になっているのか、その栄枯盛衰を目の当たりに観て来ました。

勿論、その時の病院経営にとっては点数を追いかけるのも必要な事の一部ですが、気になるのは、そのような病院が10年先、20年先にどうなって行ったかということです。第一線から退いた私が現在見えるのは、正攻法で考えた民間病院はほとんど生き残っているということです。

その時と同じような状況(波)が現在調剤部門にも来ていると考えられ、薬局・薬剤師の数十年先が手に取るように観えて来ます。

これからは、患者を抱きかかえ、スクラムを組み、患者の目と同じ方向を見て、時には医師や医療機関と対峙しなければならない時代が来るのでしょう。医師や医療機関とスクラムを組み、処方せん発行のみに努力してきた私を含め多くの先駆者たちの役割はもう終わったのではないのでしょうか。

今回(平成264月)の調剤報酬改定は、日本の医薬分業制度が定着していくか、消え去ってしまうかの分岐点の始まりと考えます。


2014/05/10(土) 14:02

寄り道Ⅵ 薄れていく記憶

「育星会を歩く」というメインタイトルのもとに、「()育星会の誕生への道のり」としてカイセイ薬局の誕生に関わる話を書いてきました。その数は29章に及んでいます。紹介した薬局は24軒に達しました。

最新で原稿にしたのが園田カイセイ薬局ですが、その原稿を作成する時に感じたのは、店舗開設の記憶が定かでなくなってきているということです。それまでは抵抗なく当時の記憶が蘇ってきて、原稿を書くのに問題はありませんでした。園田の場合はかろうじて記憶をたどることが出来たのですが、ふとそれ以降のことについて考えると記憶が定かではありません。

「何故、記憶が定かでなくなってきたのだろうか」ということをつくづく考えましたが、その当時は川久保君が体調を崩した時期であったことを思い出しました。殆んど飯田専務に仕事を任せて、川久保君の闘病生活に精力を割きました。

飯田専務は平成15年(2003年)9月に社長に就任しましたが、川久保君は平成16年(2004年)21日に亡くなりました。寄り道Ⅰ(川久保君との別れ、2011315)で掲載しています。川久保君は平成14年(2002年)の年末に夫人とタイ旅行に行きましたが、その時に体調を崩し、帰阪後すぐに天王寺区の胃腸専門病院へ入院しました。しかし芳しくなく、娘婿(内科医)の紹介で岸和田市民病院へ転院しました。そこで彼は膵臓がんだと診断され、それ以後苦しい1年余りの闘病生活を送ることになりました。

まず、すぐにガン専門の大阪府立成人病センターへ入り、放射線治療と内服治療に専念しました。その後、北海道の時計台病院での「導管治療」を受けることになり、夫人ももちろん付き添いましたが、毎日議論していた相手が居なくなり寂しいため、私も頻繁に見舞いに行きました。その時、「会社をほったらかしにしてはいけない」と考え、飯田君に社長を任せることにしました。そして、その後川久保君の闘病を支えることに専念しました。

平成8年(1996年)5月、育星会の本社移転と時を同じくしてジョヴィも本社事務所をOAPタワーに移転して来ました。川久保君は育星会の会長として関わっていましたが、ジョヴィの方に精力を割き、毎日、ジョヴィの本社に出勤していました。「社長が遅く出社していてはダメだ」と考え、また毎日の朝礼に顔を出すために、OAPタワーの近くにマンションを借り、単身赴任のように一週間の殆んどをそこで生活しました。週に2~3回夫人が掃除などに来ていました。そして、川久保君と私は、お互いの事務所では顔を合わさないようになりましたので、毎日OAPビル2階の喫茶室で会って、お互いの情報を交換しました。

このような経過で実質的な経営から離れていきました。その後も相談に乗るなど経営に少しは関わっていましたが、川久保君が亡くなって以降は、育星会の経営から全く手を引くようになりました。

そのため、この時期から育星会に関する記憶が殆んど残っていません。

従って、それ以後の出店情報については、飯田社長とそのスタッフの人達に引き継がれていくことを期待いたします。

これまで、原則として毎月1回原稿を書いてきましたが、今後は、時折、感じたことや思ったことを原稿にまとめてブログとして掲載したいと思います。

長い間有り難うございました。

2013/10/10(木) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第29章 園田カイセイ薬局の開設 在宅への取り組み

29章 園田カイセイ薬局の開設 在宅への取り組み

 

 

園田カイセイ薬局(兵庫県尼崎市小中島)は平成136月に開設しました。平成28月に開設した尼崎カイセイ薬局は、合志病院の処方せんを応需するために開設しましたが、その後隣接する阪神医寮生活協同組合の阪神医生協診療所からの処方せんを応需するようになりました。阪神医生協診療所は隣で便利と言うこともあり、多くの処方せんを受け入れていました。その阪神医寮生活協同組合は市内に6軒の診療所を開設していますが、その中の小中島診療所から育星会に処方せん応需の話がありました。

阪神医生協診療所は、院外処方せん発行により医療費が高くなると患者からクレームが出るため、当時は無料であった老人医療に限って院外処方せんを発行されました。その処方せんを尼崎カイセイ薬局が受けていましたが、その応需も小中島の在宅処方せん応需が始まって以降です。

「小中島診療所で介護にも積極的に取り組むので、カイセイさん来られませんか?」という呼びかけがありました。「介護ですから、処方せん枚数は少ないかもしれませんが、最初から全面的に院外処方せんを発行する計画です」とお考えを表明されていましたので、「受けましょう」と引き受けることにしました。

小中島は、阪急電鉄園田駅とJR尼崎駅から歩いて15分ほどの位置にありますが、診療所の横に開設することになるのですが、場所を探す時に苦労しました。店舗は、近くのビルの1階に空き室があったのですが、もともと自動車会社のビルで、1フロアが55坪ほどあり、スペースが広すぎて、とても全部を借りることは出来ません。「何とか半分だけを借りることが出来ないか」と交渉し、最終的には半分借りることが出来まして、開設に漕ぎ着けました。

初代薬局長は、現在の白井部長で、店舗につきましては、全て任せましたので、監査台など調剤室の設備などについて白井薬局長自ら設計業者と直接話をして整えました。これ以降の各店舗の監査台は、園田のケースが引き継がれています。

尼崎店は個人の在宅を100件以上抱えていました。その一部分、15件程度が小中島診療所の分でした。当初は、一日の外来が50件ほどしかないため、外来の処方せんは発行されないということでした。そのため小中島の分を含めて在宅の45件ほどで採算を検討するように指示しました。

ただ、阪神医寮生活協同組合の医療機関ですので、オーナーが決定して実行に移すというわけにはいきません。組合員の理解を得ることが必要で、当初は阪神医生協診療所も分業をしていませんでしたので、その組合員の理解を得ることに苦労しました。距離的に80メートルほど離れていましたので、高齢の患者には雨とか暑い日は大変ではないかという心配もありました。そのため、まず理解・周知を図るため、組合員を対象に日曜・祝日に説明会を連続して開催し、初代の白井薬局長が分業のメリットなどを説明しました。

当時はお薬手帳もない時代でしたが、育星会は薬剤情報に早くから取り組んでいましたので、患者さんにも好評でしたし、分業になれば診療所で出来なかったサービスが出来るという、薬剤師による二重チェックを強調しました。また、携帯電話で24時間相談を受け付けるという体制を整え、白井薬局長が対応しました。これらが評価され、当初の予想を上回る業績の残すことが出来ました。

また、潜在的なニーズの掘り起こしも課題でしたので、当時の尼崎店の徳野薬局長と白井薬局長が開発の業務にも取り組みました。週に12回、在宅のニーズを掘り起こすため、2人で周辺の医療機関を回りました。400件ほど回り、その10分の1ほどに話を聞いてもらい、そのまた10分の1ほどで処方せん発行が実現しました。「在宅医療支援」の看板を掲げていましたので、問い合わせもありました。診療所からは100枚ほどの処方せんが来るようになりましたし、在宅もありましたので、業績としては順調でしたし、PR的な存在でもありました。

育星会としては、兵庫県で2軒目の開設ですが、大阪府以外で開設するのは珍しいケースでしたので、地元の反発も予想していました。知人からも「兵庫県に進出するのであればライバルになりますね」と連絡をもらいましたが、多店舗展開をする考えは全くありませんでしたので、その考えははっきり申し上げましたし、それほどの反対もありませんでした。高知など大阪以外に開設した時は苦労も経験しましたが、兵庫県は隣接県ですし、「大阪府薬剤師会に協力的である」という育星会の状況も理解されていたと思います。

 

 

2013/09/10(火) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第28章 天満カイセイ薬局の開設 初めて1医療機関に2軒の薬局開設

 

     28章 天満カイセイ薬局の開設 初めて1医療機関に2軒の薬局開設

 

天満カイセイ薬局(大阪市北区山崎町)の開設は平成1210月で、紀三井寺カイセイ薬局の開設が遅れたため、ほぼ同時期の開設となりました。北野病院(大阪市北区)の処方せんを応需する目的で開設しましたが、既存の扇町カイセイ薬局(大阪市北区神山町)とともに、1医療機関に対して2軒の薬局を開設するのは初めての試みでした。

15章で触れましたように、扇町カイセイの時は北野病院の処方せん発行が殆んどなかったため周辺の家賃も高騰しておらず、薬局を造り易い状況でしたが、天満カイセイが出来る時には、新北野病院の処方せん発行が全面的に行われることが判っておりましたので、家賃は法外なまでに高騰しておりました。

北野病院が新築移転するという話を聞いた時、病院の規模が大きくなるとともに、北の方に移転することで扇町店からは入口も遠くなってしまうということを心配しました。扇町カイセイ薬局は、旧病院の並びで立地条件も良かったのですが、新病院になると、出入口から遠く、病院との間に数軒の薬局が来ることが想定できました。もっと立地の良い病院の近くに開設しようと土地を探したのですが、大手の調剤薬局チェーンの参入で既に土地の値段も吊り上ってしまい、法外な値段になっていました。採算が取れるはずもなく、止めた方が良いと判断しましたが、たまたま隣接した店舗が手に入りましたので、2倍に拡張して、サービスの維持をしようと考えました。大手チェーンとの戦い方を考えたわけです。

一方、天満の店はJR天満駅の方向に帰る患者さんが結構多いということで、その患者さんに便利な場所を考えました。いろいろ当たってみますと、大手は病院の裏手だと考えたのか、勧誘に来ておらず、中小のチェーンとかグループ、地元の薬局が殆んどでした。そのため、扇町と違って中小チェーン相手の戦略を練ろうと考えました。幸いにも病院に近く、駅に向かう道の角地に店舗を開設することが出来ました。

旧病院では、梅田に帰る人にとって便利な場所に扇町カイセイ薬局が有りましたが、移転後は天満の方に行く患者も多く、半々ということが調査によって解りましたので、育星会としては、1病院に対して1店舗の薬局という方針でしたが、初めて2店舗の薬局を開設することになりました。但し、2軒は全く条件が異なるものです。「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」ということは共通ですが、扇町カイセイは距離的にも場所的にも不利な状況下で、乱立する大手チェーンとどのような戦いをするか。天満カイセイは中小のチェーンを相手に、立地的には最も良い場所にあってどのような戦いをするか。2つの異なる戦略を展開することになるため、2軒開設しても良いだろうということになりました。

扇町は当時の飯田専務にお願いして当社のベテランを薬局長として配置していただくようにし、天満の方は、当時の若手の中から、新しい考え方が出来る者をと考え、初代の薬局長に起用したのが現在の木村部長です。

木村薬局長は、若手だけに、どんどん新しい、その時代に合った知恵を出し、飯田専務・渡辺常務とともに、失敗や成功を重ねながら頑張っていると当時の飯田専務から報告を受けていました。

すでに扇町店がありましたので、病院採用品目を知り予め棚番を決めることや、実際の北野病院の処方せんを元に入力・処方解析・調剤・監査がシュミレーションできたことは何より心強かったでしょうし、分包機も最初から円盤全自動分包器を導入し、監査システムも充実していました。薬剤師は常勤4名、パート1名で店舗側の準備は万全でした。

ところが、開局初日の処方せんはゼロ枚。梅田方面に帰られる方が多かったためか、その後も大腸検査食等を購入される方はおられても、処方せん枚数はなかなか伸びませんでした。小児科や神経内科の医師に対するアプローチや薬剤部長などとのコミュニケーションは渡辺常務が既に扇町時代から取っていましたので、天満店もスムーズにそれを引き継ぎました。扇町店が任されていた施設業務を天満店で受けたり、病院への訪問はもちろん、近隣住民に対して積極的に関わることで、他院処方せんの取り組みにも力を入れました。店舗の前が団地ですので、町内会や婦人会とのお付き合いにも気を配り、婦人会の勉強会で木村薬局長が講演することもありました。最近の育星会では、各店舗で地域・施設の行事に参加したり講演することがありますが、当時としては天満店が唯一の例でした。

開局後半年から1年程度は120~40枚程度でしたが、疑義照会で納得のいかない時には直接病院に出向き、医師に意見を申し上げるなどして医師から信頼を頂いたお陰か、その後は順調に伸び、2年後には処方せん枚数が120~150枚に達するほどに急速に成長しました。店舗構造では、出入口の段差をなくし、お手洗いを広くするなど、車椅子でも安心してご利用いただけるように工夫していましたし、投薬窓口以外にも、座って十分な服薬指導を行なったり、薬や体調の相談ができるコーナーも設けましたので、それらが患者さんに評価された点だと思います。

扇町とは違うタイプの薬局で患者層も異なりました。そのため、両店舗で患者層が重複したりトラブルになるということはありませんでした。扇町店は難治性疾患、重症例の方が多く、旧北野病院で以前からかかっておられた方が多いのですが、天満店では新しい患者さんが多いという違いがありました。病院に行ってから出勤される方も多かったのですが、抗がん剤治療の方、リウマチの方、精神神経科の方など広範におられましたので、「簡潔な説明を希望される方」か「丁寧な説明を希望される方」かを判断するように店舗スタッフの教育にも取り組んだ結果、患者さんからの支持を得て処方せん枚数が伸びたのではないかと考えています。

また、天満店の地主さんは氷屋さんでしたが、廃業して自宅を兼ねた建物を新築され、その1階にカイセイ薬局が入りました。その地主さんが薬局運営に協力的であったことも大きな助けになりました。「病院から見てすぐに判る場所に看板をつけよう」と、ご自宅の外壁への取り付けも考慮してくださったり、近隣地域で人気のあった地主さんが天満店をアピールして歩かれることも少なくなかったことを、今でも感謝しております。

扇町カイセイ薬局の周辺に大手が進出した時、そして天満カイセイ薬局を開設した時に、私自身が処方せんを持って育星会以外の薬局を回りました。大手チェーンがどのような戦略をとっているのかを確かめるためです。1か月1回だった処方せんを細かく分割して出してもらい、それを持って回りました。自店の欠点も解りましたが、一時的に処方せんが減っても回復できるという自信ができました。

大手の場合はあくまでも従業員という感覚ですが、育星会ではオーナー側の感覚を持った社員が多く、「自分たちで考える」という感覚がありました。大手が取り組んでいるもので「良いな」というものは天満で導入しました。大手は、マニュアル通りの親切さではありますが、心を打つものはありません。そこに育星会らしい感覚をもって接することが大阪独特の勝負どころだという実感を持つことができ、以後のわが社の運営に役立ちました。

2013/08/10(土) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第27章 紀三井寺カイセイ薬局の開設 初の大学病院応需

 27章 紀三井寺カイセイ薬局の開設 初の大学病院応需

 

紀三井寺カイセイ薬局は和歌山県立医科大学附属病院の処方せんを応需するために平成129月に開設しました。桃谷カイセイ薬局開設から1年半後でしたが、大学病院の処方せんを応需する最初の薬局でした。

卸からの情報もありましたが、医薬分業に関して、国の方針としては処方せん発行を促進するというものでありました。つまり、行政サイドでは医薬分業を推進する方針であるのに、その当時は、現場、つまり病院サイドの動きがなかなか進まないという状況があったわけですが、地域の大学病院で厚労省の考え方に沿った取り組みをする場合、行政サイドから出向しているケースがあれば、国の方針に沿った対応をするだろうと考えて取り組みを進めていました。そのような時に、和歌山県立医科大学附属病院は薬剤部長に県の薬務課長が就任されました。

育星会として、次の薬局開設場所を検討していた時期に、行政出身者が薬剤部長に就任したのが和歌山医大でした。高梨薬剤部長ですが、医薬分業にも積極的で、和歌山医大の分業率を上げることが、地域の分業率を引き上げるというお考えでした。医大が処方せん全面発行の動きがある前から、いろいろと高梨部長とお話しをして、ご意見も頂戴してきました。ですから、病院自体は、当初は全面的な処方せん発行の考えは無かったようですが、高梨部長のご説得もあって、「地域のお手本となる」ため、分業の道を進める方に傾いて行きました。

地元の和歌山県薬剤師会でも、医薬分業の推進のため、和歌山医大に対して処方せん発行を求めて活発な活動を展開され、移転以前の病院では近くに会営薬局も開設していました。育星会としては、全面的な処方せん発行の決定以前から薬剤部長と話しができるようになりました。院内の処方を勉強したり、医師の先生方にも顔見知りになったりして、準備を重ねてきました。当時の高梨薬剤部長には大変お世話になりました。残念ながら、高梨様は既に故人となられましたが、その後の歴代薬剤部長にもご指導いただきました。

和歌山県立医科大学は、平成109月に和歌山市の中心部から紀三井寺に移転し、翌115月から新しい附属病院で診療が開始されました。ただ、地元の抵抗が強く、対応に時間を取られ、育星会の薬局開設は予定より数ヶ月遅れとなりました。薬局は東出口を出た場所に開設しました。薬局開設の場所は、何箇所か候補地がありましたが、土地が広過ぎたり、条件の問題もあってなかなか借りることができませんでした。その中で、駐車場として利用されていた場所を借りることができました。

借りるまでは何度も足繁く通いましたが、借りることができてからは店舗の面ではスムーズに進みました。病院の正面玄関側はバス停がありますが、病院前には川があって、薬局を開設する土地がありませんでした。それに、和歌山は車社会で、自動車を利用する方が多いため、駐車場に抜ける東側の土地を確保することは最初からの計画でした。東側には病院の出入口からJRの紀三井寺駅までまっすぐの大きな道路ができるという情報もありましたし、東側の出入口を出た場所に土地を確保しました。

初代薬局長は徳野部長で、処方せん発行率が10%とか20%程度の時代でしたので、当初は薬局の周辺は雑草の生い茂る場所であったことや、処方せん受け入れ体制の整備などでいろいろな苦労もありました。

新病院では平成141月から全面的に院外処方せん発行となりましたが、そのため、紀三井寺カイセイ薬局2代目の薬局長となった天堀課長が患者対応などに大変な苦労がありました。天堀薬局長は13年夏に就任しましたが、当初は処方せんも10枚とか20枚という状況でした。徐々に発行率は上がっていたのですが、1310月から内科の処方せんが発行されるようになり、一挙に増え、発行率も50%ほどになりました。20枚、30枚の処方せんが突然100枚くらいになりましたので、その受け入れが大変でした。大量の調剤を応需するための作業台もありませんでしたし、処方せんを保管する設備もありませんでした。

徐々に増えるだろうという予測で体制の整備を図っていましたので、急遽、調剤器や分包器を導入しなければなりませんでした。141月からの全面発行は解っていましたので、それに対応できる設備・機器を急いで整えました。しかも、大学病院の処方せんは内容が濃いですから、スタッフも苦労しましたし、処方意図なども含めていろいろと勉強しました。

薬剤師会がFAXコーナーを設置して、処方せんは分散され大いに助かりましたが、当初は、門前薬局はカイセイ薬局しかありませんでしたので、そこで失敗することは出来ません。翌日の患者さんの数を予測したり、遠方の患者さんもおられますので、待ち時間が長くなる場合には配達も頻繁にありました。当時はみんな必死でした。その後、大手調剤薬局や地元の薬局も進出して3軒になり本当に助かりました。

開局に当たって、最も気を使ったのは建物の上に取り付けた「カイセイ薬局」の看板です。病院を出てすぐに看板が目に入るように建物の上部に付けたのですが、建物の方向に沿って看板を設けるのが普通であるのに対して、紀三井寺店は、病院から出て患者が目にする方向を意識して、建物に対しては斜め方向の看板にしました。そのため、建物と看板の位置が歪になっています。

しかも、当地はかなり風が強いため、屋根ごと看板が飛ばされないよう補強し、そのため費用もかなりかかりました。また和歌山県では、県独自の指導で薬局の入口を2箇所設けることは認められませんでしたので、入口を1箇所として、しかも動線を良くすることなど、店舗の面も苦労しました。

当時、薬局開設のポイントは2つありました。

1軒だけで集中して受けるということよりも、継続して100枚くらいの処方せんを丁寧に取り扱うということです。分業が成熟期に入ってくれば何が大切になるかを創造できたからです。最初は育星会だけでしたが、他の調剤薬局もすぐに進出してくるだろうし、何軒出来ても100枚ぐらいを維持し生き延びるためには土地の確保が最も大事な要点でした。当初何箇所か候補地がありました。その中から、区画整理で道路ができる場所を借りることになりましたが、その直後から土地の値上がりが始まりました。しかも、育星会の薬局としては、適度の競争が無ければいけない、中味がしっかりしていて、サービスがよく、しかも信頼できる薬局でなければいけません。すなわち「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」です。競争という観点から大手の進出は歓迎しましたが、100枚が20枚くらいに減るのは困ります。200枚になっても困りますし、100枚前後がいつも維持できるような場所を探しました。

和歌山は分業後進地区でしたし、特に育星会が最初の他府県からの参入者でしたので、激しい抵抗がありました。ただ、私にしましても川久保にしましても自らが開局者でしたので、どちらかと言いますと、既得権を主張してきた立場でした。そのため、地元の方々の意見はよく理解できましたので、地元のご意見は全て受け入れました。薬剤師会ではFAXコーナーを設置して処方せんを分散させるという方針でしたが、それもカイセイ薬局としての応需を100枚くらいに止めるためには、「むしろその方が大歓迎だ」とも考えました。

当初、候補地は医大の東側に3箇所あったのですが、他の調剤薬局チェーンだったら3箇所とも開設したかも知れません。「何故もっと出入口に近い場所にしないのか」という意見もありましたが、しかし、私は初めからその考えはありませんでした。1軒だけで、継続して100枚程度を受け入れることができる最適場所として考えていました。出入口に近い場所には関西の大手チェーンが進出しましたが、カイセイ薬局として100枚を維持するためには、内容が良くて、快適に薬をもらえて、サービスが良くて親切であるということであれば、患者さんは必ず逃げずに残っていくだろうと考えました。

全面発行までにはスタッフが育っていましたので、我々が直接出向かなくても対応できるようになっていました。桃谷に続いてスタッフに恵まれていることを実感し、競争の中を出店して逞しい社員が育って行ったことを誇りに思っています。

2013/07/10(水) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第26章 桃谷カイセイ薬局の開設 初めて薬局開設が先行

26章 桃谷カイセイ薬局の開設 初めて薬局開設が先行

 

桃谷カイセイ薬局は、JR環状線桃谷駅前の大阪市天王寺区烏ヶ辻に平成113月に開設しました。処方せん発行の確認よりも薬局開設を先行させた初めてのケースです。

それまでの薬局開設は、医師とお話しをしたり、病院とお話しをする中で、処方せん発行の話が出て、お互い確認を取り合い、「それでは薬局を開設しましょう」ということで開設することが中心でしたが、桃谷カイセイは「まず薬局を開設し、その後に医療機関に処方せん発行を働きかける」というやり方でしたし、競争状態の薬局が社員を成長させるという確信を持っていましたので、そのような条件の薬局を開設しようと考えていました。

JR桃谷駅周辺には薬局薬店がたくさんありますが、いずれもOTCを中心とした店舗で、調剤を志向した薬局はありませんでした。医療機関は少なからずあるのに、処方せんを発行していないため、処方せんを応需する薬局がなかったわけです。しかも、駅周辺の診療所だけではなく、大阪警察病院、NTT西日本大阪病院などの大規模病院が近くにあり、国公立病院の処方せん発行が急速に進んでいた時代の流れがありました。最も近い病院であるNTT西日本大阪病院の院長が当時の飯田専務の知人であるという幸運もあり、薬局開設の後押しともなりました。近隣の医療機関を訪問し、「薬局を開設することになりました。処方せん受け入れの準備ができておりますが・・・」と申し出ますと、「それでは処方せんを出そうか」という医師もおられました。

それまでの経験から、「今後は、薬局の立地条件が重要な要因となる(点から面へ)」ことを体で感じて来ましたので、まず、薬局の開設場所をそれぞれの病院の門前よりも一点集中する桃谷駅前に置きました。「それぞれの門前で何軒も造るよりも、その地域で一軒」という考えを固守し、的確な場所を探しました。少し捜していると、すぐに駅前の民家を借りることができました。当時はまだ処方せん発行があまり進んでいませんでしたので、ライバルもなしにスムーズに運び得ました。

桃谷店はスペースの関係から調剤室を2階に開設しましたが、それでも1階に十分な待合室のスペースを確保出来ません。ところが隣接の民家も借りることができ、待合室として利用することにしました。私としましては、2軒続きですから、一部を打ち抜きにして、待合室同士の店舗の行き来が楽に出来るようにしたかったのですが、家主がどうしても承諾しませんので、結局、新しい待合室は隣家という状況になってしまいました。新しい待合室は主に子供用として利用することになりました。

また、スタッフの面では、優秀な薬剤師との要望に対し、飯田専務から山鹿さんを推薦されました。彼女は非常に良くやってくれました。私が山鹿さんを最初に見たのは彼女が平尾カイセイ薬局に勤務していた時です。彼女は医師に話をする時に全く動じる様子も無く堂々と話をしていました。私もそうですが、薬剤師は医師に対してどうしても低姿勢になります。彼女にはそれがありませんでした。「この子はできるなあ」と好感を持ってその様子を見ていましたが、桃谷の店長になっても、積極的に周辺の医療機関と接触し始めました。会社の考え方をよく解っていただいていたと思います。一定の医療機関との結びつきで薬局を開設したわけではありませんので、「近隣の医療機関とは絶えず仲良くしておかなければいけない」と力説していたこともありまして、彼女は次々と近隣の医療機関を訪問し、それによって処方せん発行を開始した医療機関や関心を持ち始めた医療機関も多数出てまいりました。

初代の薬局長は白井部長で、彼の大変な努力によって医師を説得し処方せん発行が実現した医療機関もあり、薬局に対する評価が高くなったという事実もあります。

残念ながら、数年後、彼女は大阪でも有数の歴史ある薬局から請われ、そのご長男と結婚して退職しましたが、嫁ぎ先のお母様は川久保会長の義理の妹さんです。つまり川久保夫人の実の妹さんです。縁を感じましたね。会社では「なぜ縁結びをしたのか」と批判をいただくし、近隣の医師の中には「彼女が辞めるなら処方せん発行を止める」と冗談を言う先生方もおられました。

駅に近いということもあって、大規模病院の処方せんも来ていましたが、病院の門前には調剤薬局が次々に出現して、それらの病院の処方せん枚数は少なくなりました。しかし、周辺の診療所からは処方せんも増え、多くの医療機関の処方せんを応需するようになりました。

その後、病院に近い角地に大型チェーン薬局が出店しましたが、このケースは、地方銀行の旧店舗を一棟丸々購入し、1階に調剤薬局を開設すると同時に、2階、3階に医療機関を誘致するというやり方でした。「なるほど、このようなやり方もあるのか」と思いましたが、「そうだ、34年前に東京に行って勉強していた時に、そのようなケースがあったな」と思い出しました。当時は、医療機関を回るのに精一杯でしたし、余裕もありませんでした。しかし、周辺の土地を探す時に、今でしたら、相手が薬局となると法外な値段をふっかけられますが、当時は、相場で借りられました。最初でしたし、今のように薬局が殺到するということがありませんでした。ですから、桃谷も普通に借りられました。

ところが、現在では土地が何倍にも値上がりしていますし、すごい状況になっています。大型チェーンの出店で感じたのは、「分業では東京に比べて関西は3年遅れているな~・・・」ということです。分業に関しては、「関東や中部の薬局から見れば大阪は攻めやすい地域だろうな」とその時に思いました。大阪よりも進んでいましたからね。現に、最近では東京や中部の大手調剤薬局チェーンがどんどんと大阪に進出してきています。

この時の経験が、育星会の医療モールへ取り組みの基となり、また、患者中心の「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」がより必要な時代に入ってきました。大型チェーン薬局には太刀打ちできませんが、徹底的に患者を中心にした大阪独特の調剤薬局を造っていくということを強く感じました。「関西風調剤薬局」の伸ばし方は、患者を抱きかかえて処方せん調剤にどう取り組むかということに徹しなければなりません。

大規模病院で処方せん発行の動きがありますと、調剤薬局が群がり、次々と門前薬局が出現しますが、それは、門前でたくさん処方せんを取ろうとするためです。しかし、処方せんはたくさん取っても充分な対応ができません。一人ひとりのお客さんを大事にして、その一人ひとりに喜んでもらうためには、100枚くらいが限度です。そのような薬局にしようと思えば、門前よりも地域の中心に一軒で、集まって来る処方せんを応需する方が望ましいと思いました。

その意味で、桃谷カイセイ薬局は特に印象に残る店舗の一軒でした。

2013/06/10(月) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第25章 阿波座カイセイ薬局の開設と社員の成長

25章 阿波座カイセイ薬局の開設と社員の成長

 

阿波座カイセイ薬局は、日生病院の院外処方せん応需を目的に平成1011月、大阪市西区立売堀に開設しました。

阿波座カイセイは服部部長の努力で取り組みを開始しました。当時、服部部長は開発に配属された時でしたが、自身が出生したのが日生病院であったということもあり、病院を見学に行き、医薬分業の可能性を考えていました。そして、多くの企業の人が参加する勉強グループにも属し、交流していましたが、その中に日本生命の社員の方もいて、日生病院の事務長は本社の法人営業部の部長が就任することも聞き、紹介してもらって病院を訪問し分業の話もしました。

日生病院は、公益財団法人日本生命済生会付属という半公的な病院で、一方で企業系病院ですが、職員の福利厚生を目的とした他の企業系病院と違って、広く一般の患者を受け入れています。特に、一般の患者の診療も本格的に開始していましたので、経営面の課題もありました。そのため、分業にも興味を示していました。

処方せん発行の情報はメーカーや卸も掴んでいましたが、当初から「マンツーマン型式は無理」と言われており、オープンの形での発行ですので、それまでのマンツーマンと違って、複数の薬局の出店が予想されました。横一線のスタートになりますので、場所が最も重要な要素となります。立地の良い場所を確保しようと多くの会社が必死で候補地を探していました。私どもは、病院の隣接地に工場があり、その敷地の一部が最適と当初から考えていましたので、通い詰めて借りることが出来ました。「1階と2階は使ってもらっても良いが、3階は工場と続きにして自社で使わせて欲しい」など先方の条件があり、その条件を受け入れて、4階建ての建物を建て開局に漕ぎ着けることが出来ました。店舗は狭かったので、2階に調剤室を持っていくしかありませんでしたが、前の年に城東カイセイ薬局を開設し、2階に調剤室を設置しましたので、その経験が参考になり、スムーズに運びました。

開設に当たっては、病院の門の近くに立って患者の行く方向を調査したりして、最も相応しい開局場所を決めましたが、同時に病院側と細かいことまで話し合う必要があり、担当者は何度も病院を訪問しました。病院での研修も行い、薬局でも新しいシステムを導入しました。

院長の意向で決まるような、それまでのケースと違って、組織として決定するため、ルールに則った対応をしなければなりません。初代の薬局長は会社のブロック長が就任しましたが、病院への対応や内部の体制構築など立ち上げる際には非常に苦労されました。

地元の薬剤師会は、1軒だけの開設ではなかったので余り反対はありませんでしたが、私自身の親しい知人が薬局を開いていましたので、彼には随分恨まれました。調剤薬局の開設に当たっては、どこでも反発はありますし、「顔では笑っても、心では怒っている」という状況がありますが、西区でもそうだったと思います。私も川久保もその風圧は充分感じていました。しかし、マンツーマンほど強い反対ではありませんでした。

「マンツーマンと違って、数軒で受け入れるとこうなるのか」・・・新たな発見がありましたし、場所が重要な要素になることが解りました。「処方せんを出していただく」ということから、「良い場所を見つける」ということが重要である状況に時代が移り変わってきましたが、そのために借り入れや資本を増強する必要もあり、川久保に「お前の考え(銀行借入、他資本の導入)が正しいかも知れないなあ~」と言ったこともあります。しかし、結果的には、当初からの方針が正しかったと思っています。スタッフも、競争の状態の薬局に勤める社員ほど優秀になりました。薬局同士が競争し、お互いに切磋琢磨しますので、オーナー側からしますと、「良い社員」に育っていきました。よく勉強しますし、患者さんの評判もすごくいいですし、質的にはかなり良い社員に育ったと思います。

2013/05/10(金) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第24章 高知カイセイ薬局の開設と地域に向けた薬局

  24章 高知カイセイ薬局の開設と地域に向けた薬局

 

平成101月、庄内カイセイ薬局に続いて開設したのが、高知市駅前町の高知駅前カイセイ薬局(平成101月開設)と、引き続き開設した高知市大川筋の高知大川筋カイセイ薬局(平成105月開設)です。関西以外で初めての出店でしたし、「病院に向けた薬局から地域に向けた薬局の開設」という方向性を確立しようとした時期でもありました。

現在は高知駅前カイセイ薬局の1店舗だけになっています。

高知カイセイについては、高知市の近森病院の処方せんを応需するために開設したのですが、きっかけは理事長の近森先生と管理部長の川添さんとの出会いです。お二人は手を携えて近森病院を日本でも有数の病院に育てられたのですが、私たちとの最初の出会いは社会医療研究所の勉強会でした。お二人とも勉強会に出席されていたのですが、研究所の所長である岡田玲一郎先生にご紹介いただき、何度かお会いしていました。

お二人は、何ら構えることなく気さくにお話していただけますし、近森先生のお母様のお葬式も参列させていただきましたが、葬儀のやり方がお公家さんとか皇族のようなスタイルで由緒ある家柄であるということを実感しました。近森先生ご自身の風格も素晴らしく、ものの考え方も率直ですし、川添さんの方は頭が切れて実行力があって、お二人は同級生らしいのですが、素晴らしいコンビでした。比較してもとても及びませんが、私と川久保のコンビのようなものです。コンビ同士で何となく馬が合ったことが、その後の交流をうまく運ばせる要因になったと思います。

そのうちに「分業のことを考えている」「経営上、薬を離したい」というお話があり、「薬を離す前に、主だった勤務医などを集めて勉強会をするので、その講師をしてほしい」と要請されました。病院スタッフを集めての勉強会で講師を要請されたのは近森病院と島田病院の2件だけです。

四国ということで遠いという問題点もありましたし、薬剤師も少ないため、大変であるということは解っておりましたが、近森先生と川添さんの人物像に引かれて、川久保と「よし!やろう」と決断しました。

薬局を開設するに当たって直面した問題は、場所の確保です。病院は非常に大きな敷地で、裏側に広い駐車場があり、病院の裏口を出たところにビルがありましたので、「そのビルが借りられそうだから、そこに薬局を開設してはどうか」というご意見もいただきました。そうしますと、ほぼ80%近い処方せんを獲得できるというわけです。

その時に、「近森病院の患者さんには皆判るだろうが、それ以外の一般市民、街の人には見えない」ということがありました。近森病院に対しては正面を向いているけれども、市民の側には向いていないということです。ところが、病院を出た正面のところに、街の方を向いた場所が見つかりました。病院に対しては横を向いた形ですが、手ごろな店舗が見つかりました。

どちらにするか非常に悩みました。裏に造れば80%近く処方せんを獲得できますが、地域に向けた薬局を造りたいと考えていた時期でもあり、悩んだ末に敢えて表の方の地域に向けた薬局を造ることに決めました。病院からもすぐ近くなのですが、大通りに面して、市民からはっきり見えるように開設しました。「地域住民の方に向こう」という考え方に魅力を感じた時期でした。

そうなりますと、裏側に薬局が出来ればかなり影響を受けるだろうと予想はしておりましたし、現実に、病院の薬局長だった人が退職して薬局を開設し、処方せんを受けることになりました。病院側からは、「7割はその薬局が応需し、カイセイ薬局は3割程度になりますよ」と言われました。我々も覚悟はしていましたが、丁寧に対応し、努力の仕方によっては徐々に増えていくだろうという自信がありました。

処方せん獲得には、初期においては場所が重要な要因になるでしょうが、次の早い時期には薬局の質が大切になる時代が来ると確信していましたので、敢えてその方向に進んだということです。これが育星会の大きな一つの転機でもありました。それまで、病院側ばかり向いて開設していたものを、出来るだけ地域の方を向いて造ろうと決めました。

もう一つは、スタッフの問題ですが、育星会のナンバー2を派遣しました。彼は非常に頑張ってくれまして成功しました。地域の人に信頼され、最初は「37」で負けるだろうと思っていたものが、蓋を開けてみると、1年ほどの間に「64」ぐらいで我々の方が多くなりました。病院側からは「やはり大阪の人は商売に強いな」と言われてとても嬉しく思いました。

大川筋カイセイ薬局は、近森リハビリテーション病院の処方せん応需のために開きましたが、患者さんの負担を軽くするため、病院に向って隣接して開設しました。こちらは処方せん枚数が少ないのは覚悟していました。「トータルで良ければ構わない」と考えていましたので、2軒開設したわけですが、結局こちらは平成1612月に閉局しました。

高知にはいつも川久保と二人で行っていましたが、開設に向けて活動する時期には予想外のトラブルもあり、頻繁に高知に行っておりました。飛行機に乗り遅れてフェリーで夜中に帰ったこともあります。当然日帰りを考えていましたので、翌日は大阪で予定を組んでいましたし、泊まることは出来ませんので無理を致しましたが、却って川久保と長い時間話す機会が出来てよかったと思っておりました。カツオのたたきや美味しい魚を食べたり、魚の干物を土産に買ったり、今となっては懐かしい思い出です。

 

注:高知カイセイ薬局は、近森病院の外来棟の新設に伴い、平成2311月に病院の門前に移転しました。 高知市駅前町24→高知市大川筋1350

2013/04/10(水) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第23章 庄内カイセイ薬局の開設と会社のモットー誕生

23章 庄内カイセイ薬局の開設と会社のモットー誕生

 

平成101月、大阪府豊中市庄内に開設したのが庄内カイセイ薬局です。庄内カイセイ薬局は育星会第1号店であるホシ薬局が処方せんを応需している上田内科医院の上田卓也先生の叔父様である上田正規先生の病院で、この病院の処方せんを応需することを目的として開設しました。当初は外科中心の病院でしたが、地域のニーズに併せて診療科も増えてきました。

この時には薬局を開設する場所を探すのに「灯台下暗し」という経験をしました。そして、この時に「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」というモットーが誕生しました。

上田正規先生は、初めは医薬分業をすることに難色を示しておられました。反対ではありませんが賛成でもありませんでした。甥の上田卓也先生には医薬分業の良さやメリットを盛んに訴えていただきましたが、上田正規先生は乗り気ではありませんでした。川久保と私は何度も足を運びましたが、当初は相撲の話ばかりで、そのような状態が長年続きました。上田正規先生は、いわゆる相撲の「タニマチ」で、後援会の会長もされ、毎年、大阪場所では土俵近くの桟敷席に座っておられるのがテレビでよく映っておられました。それが、何度も足を運ぶうちに、ようやく「考えてみよう」ということになり、「どうすればよいのか分からないので話を聞かせてほしい」と相談を受けるようになりました。

そこで、薬局を開設する場所探しが始まりました。しかし、庄内は下町で、なかなか薬局を開設する場所が見つかりません。病院の隣接地に大きな駐車場があり、その一部を借りるという考え方もありましたが、持ち主は「全部を借りてくれるなら」と言います。そうしますと、かなりの資金が必要になります。また、病院の向い側に土地があったのですが、そこは既に病院が関連施設のために購入していました。「灯台下暗し」で「とき既に遅し」でした。

ところが、間に入ってくれた人がいて、大きな駐車場の一部、道路に面した部分を育星会が借りて、残りの広い部分を病院が駐車場用地として借りることで解決しました。薬局側としても、患者様が駐車場に行きやすいように配慮しました。

育星会としては「人間性のつながり」を重視して進めていますので、うまくいけば極めてスムーズに進みますが、長くかかる場合もありました。

近隣の医療機関とも話をしましたが、「いずれは処方せんを出すだろう」との感触を得ていましたので、「少しくらい離れても良いだろう」と考え、薬局の開設場所にはあまり拘らず数軒の医療機関の中心になる場所を考えていましたが、それがアダになってなかなか見つかりませんでした。結局は、最初に考えて資金のためにキャンセルした良い場所に開設することができたわけです。しかし、期待した近隣の医療機関の処方せん発行は実現しませんでした。周辺は下町で、患者さんが費用に敏感であるため、医療費が高くなる処方せんは発行しにくいという面があったようです。

また、下町という環境は「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」というモットーの誕生につながります。「下町で親しみのある薬局にする」という考え方から、会社のモットーが誕生し、初めて掲げられました。

最も気になったのは、「下町だから、患者の方も値段の面で厳しいだろう」という点でした。病院の隣ですので、「遠い」という批判はないでしょうし、「面倒くさい」という点はあるにしても、それほど抵抗はないでしょうが、「今までと違って高い」という批判は多いだろうと病院の事務長さんには言われていました。

つまり「調剤薬局は値段が高くなった」という批判を払拭して行くためにはどうしようかと考えました。あちらこちらで始まっていた「物を進呈しようか」とか「値引きしようか」なども考えましたが、それは「将来的にみて良いことではない」と判断しました。それよりも「文句を言う人は仕方がない。それよりも『値打ちがあるな』と受け取ってもらえるようなことを考えよう」と知恵を絞りました。そこで、何か目標を決めよう、言葉として目標を設定しようと考えました。

その時に「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」という言葉が出てきたのですが、それ以外にも「あなたに親切な薬局、あなたに親切な薬剤師」とか、「あなたに喜ばれる薬局、あなたに喜ばれる薬剤師」などいくつかの表現もありました。しかし、どうしても限られてきます。「親切だけでよいのか」などの考え方です。もっと幅広い表現はないかということから「やさしい」という表現が出てきました。

このことで思い出すのは、川久保と議論したことです。「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」というのは大きな目標であり、私は、その下にもっと細かく目標を10項目ぐらい作ってはどうか主張しました。「患者は満足して帰りましたか」など患者の満足度を示せるような10項目をつくって打ち出そうと主張しました。しかし、川久保は大きな目標だけでよい、後は社員たち、次の次代を担う者に任せればよいと主張します。結局、まず大きな目標だけをつくろうということになりました。ただ、この時に、社内に委員会でも設置して、次にやらなければならない10項目について検討しておれば今では相当充実した10訓が出来上がっているだろうなぁ~と思っています。それをしていればもっと充実したものになっていたでしょう。

スタッフの方も、下町という環境を重視して人材を選びましたし、「笑顔とやさしさでカバーしろ」と強調しました。他の店よりも余計にその面を重視しました。薬剤師もベテランが来てくれて、特に兵庫医大の南田先生の奥様がご活躍していただき、スタート後はほとんどトラブルもなくスムーズに進みました。上田正規先生のお人柄もありますが、上田卓也先生の強いご推薦があったからこそという点が幸せだったと思います。

2013/03/10(日) 00:00