yoshio's blog

寄り道Ⅳ 育星会の選択(分裂の危機からの脱出)

昭和49年に処方せん発行料が50点となり、医薬分業が進むものと期待しましたが、期待したほどは進みませんでした。薬を扱いたくないと考える一部の診療所が少しずつ発行する程度でした。

そこで処方せん発行を促進したのが、病院薬剤師の病棟業務にフィーをつけるということです。昭和633月の診療報酬改定により入院調剤技術基本料が新設され、診療報酬点数100(病床数300床以上)が認められました。薬剤師が入院患者に服薬指導を行った時につくフィーですが、そのことにより、それまで関心を示さなかった病院が分業について考え始めました。特に、国公立病院が中心となって、薬剤師を病棟に上げるように考え始めました。

外来が忙しいため病棟に上げる薬剤師が足りません。もう少し補充してほしいという要望が出るわけですが、病院の薬剤部の技術料が少ないため簡単に補充という方法をとることはできません。ですから、診療報酬面で何ら貢献のない外来調剤よりも病棟の方が「合理的だ」と考え、病棟に上げることを推進し始めました。昭和63年に始まった入院調剤技術基本料が「月1100点、300床以上」から、4回の改定を経て「月245050点、病床数規制撤廃」(名称も平成6年から薬剤管理指導料に変更)になってしまいました。処方せん発行のバブルが始まったわけです。

それまでは、処方せん発行が難しい状況であったのを「出して欲しい」と要望し、OKをもらって初めて土地を探し、薬局を開設していました。ところが、病院側、つまり発行側の都合で勝手に処方せんが発行されるようになったわけです。病院側と話し合いをする必要がなくなりました。

そうなりますと、病院の前とか、処方せんを出しそうな医療機関の前に、目の前、一等場所に土地を確保するという競争になりました。これによって、急激に調剤薬局が増えました。この時期を境に大手メーカーや卸業など病院の情報と資本のある他業種が参入して来るわけです。

それまで、育星会は医師とよく話をして、相手を選んで、信用できそうな医師と分業をするということを大原則にしていました。このバブルが起きた時に、そのバブルに参加して多数店舗展開を図るか、それまで通りコツコツと進むのかという転機に直面しました。

私と川久保君は非常に悩みました。どちらに進むべきか。川久保君は、他資本を導入した店舗展開をしたいという強気の意見でしたので、私との間で意見が分かれました。その時に、一挙に増やしていこうと思えば資金が必要になります。そのためには、自己資本ではやっていけませんので、借入をしなければならないわけです。銀行借入、他資本導入や上場して資金を調達するという方法があります。そうなりますと、「小さな街の薬局が集まって創った夢の調剤薬局」ではなくなります。自分たちの理想とする薬局ができなくなりそうな不安に駆られました。

資金調達しようとすればできないことはありませんが、「そのような薬局で良いのか」ということになります。そうではなく、今まで通り、相手を見ながら、コツコツと、借入をしないでやって行きたいということでした。二者択一になりました。二人がお互い歩み寄った合意点は、他資本を入れるとか、銀行からの借入を行うという時期ではまだないという判断をしたわけです。

薬剤師としては合格でも、企業家としては失格だったんでしょうね。

特に、育星会の実家であるJOVYが上場を計画していましたので、その時に育星会も合併して上場し、資金を集めて店舗をどんどん増やしていこうということになりました。そしてそれまではコツコツとやっていこうという方針に決まりました。拡大路線の川久保君と激しくて長い激論の末、今まで通り他資本を入れずにコツコツとやっていこうと折り合いがつき、以後川久保君はJOVYの社長として乗り出す事になりました。二人の意見の一致点に収まったのが、「実家であるJOVYの上場まで待とう」ということです。

当時、次々と土地を確保したチェーン薬局があったのですが、「土地を確保し、薬局もつくったが、処方せんが出そうにない」ということで資金が持たず、「育星会に買ってほしい」という話が結構たくさんありました。小規模チェーンでは倒産したケースもありましたし、売りに出て経営者が替わったケースもあります。うまくその波に乗ったのが現在の大型チェーンです。

育星会も、あの時に、有り金をはたいて土地を購入するなどの展開を図ったとすれば、土地急騰の時代でしたので、もし分業が実現しなければ、売る時に大きな損失となって借入金だけ残った事と思いますし、今のような素晴らしい育星会社員が出来なかっただろうと考えています。この大きな転機に直面し、JOVYと合併して上場する時に改めて検討する」という決断が正しかったものと今でも確信しています。

2012/05/10(木) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり  第16章 東住吉カイセイ薬局の開設

     16章 東住吉カイセイ薬局の開設

 

大阪市東住吉区中野に東住吉カイセイ薬局を開設したのは平成54月です。

大阪で社会医療研究所の研修会の後、所長の岡田玲一郎先生と夕食をご一緒させていただいたのですが、その場に森本病院(大阪市東住吉区)の浅田常務理事と多根病院(大阪市西区)の海北事務長も同席されました。その時は、医薬分業の話も出ましたが余り興味がなさそうでした。その後何回か浅田さん、海北さんと三人でお会いし会食をしましたが、分業の話はほとんど出ませんでした。

そうこうしているうちに、森本病院から「病院の裏の地主さんがワンルームマンションをお建てになるので、3階から上を全棟借りて病院の看護婦寮とする計画です。1,2階が貸事務所として空いているから育星会が薬局を開設しませんか」というお話が浅田常務さんからいただきました。

降って沸いたようなお話なので、私と川久保はびっくりしましたが、それ以上に浅田常務さんの頭の中には処方せん発行時の病院のシミュレーションが既に出来上がっておられたのには驚かされました。

ただ、当時最も苦労したのが店舗の確保です。病院の正面、出入口の横に店舗が2(ブティックと喫茶店)ありましたので、そこを借りに行ったのですが、何回行っても首を縦に振ってはもらえませんでした。最も良い場所でしたが、結局貸してもらえませんので、「それなら裏に開設しましょう」ということで、マンションの1階をお借りすることに決めました。しかし、処方せん発行後は、病院が患者さんの不便さを考え裏側にも出入口を作っていただけましたので、カイセイ薬局としては大変助かりました。

病院側としましては、「処方せんを発行するのであれば全部出す。部分的に徐々に出すということはしたくはない」という基本的なお考えでした。だだ、「いつということはまだ決めていない」ということでしたので空家賃を払うことを覚悟していました。しかし、幸いにも空家賃を払うことなく、ほぼ薬局開設と同時期に処方せん発行が始まりました。東住吉カイセイ薬局の開設には幾多の強運が重なったものと川久保と喜んでいましたが、実のところ「ワンルームマンションの1階を借りてはどうか」と浅田常務さんからお話いただいたのが全てでした。森本理事長さんと浅田常務さんの「口では厳しく心は暖かい」シャイな人間性を感じました。浅田常務さんとは現在なお会食などをさせていただいております。

処方せん発行が始まりましたが、抜群の立地条件となる正面の2軒に「どこか薬局が来るのではないか」と心配しながらのスタートとなりました。

家主さんとしては、6~7階建てのマンションの家賃だけではなく、1~2階の事務所・店舗部分を賃貸しして賃料収入を確保し、経営面で安定させたいという希望もありましたので、薬局を開設するという話は大歓迎でした。2階は清掃関連会社と保育所が入りましたが、1階は薬局が全フロアを借りました。

そして、それから数年後、「思いがけなく」という意味よりも、「予想していた通り」病院の正面の真隣の喫茶店が薬局に替わりました。しかし、その後2年ほど経過して病院が長居公園近くの東住吉区鷹合に移転(平成1610月)することになり、カイセイ薬局も移転しましたが、正面の方の薬局は移転しませんでした。平成169月のことです。育星会では病院移転の情報を早くから入手していましたので、早くから薬局開設の場所を探し、現在地を借りて移転することができました。

浅田常務さんには私と川久保はよく叱られました。「君たち薬剤師さんは常識の知らない非社会人だねえ~」・・・。ほとんど会う度にご指導を頂きましたので、何の腹立たしさも感じませんでした。叱られる度に常識を持つ社会人に近づいていくような喜びを感じていました。以後薬剤師エゴの塊であった私と川久保は、少しずつ社会人に復帰して行けたのは浅田常務さんがおられたお陰だと感謝しています。

当時は、処方せんを発行するので薬局を作るという形が中心でしたが、東住吉のケースは逆のケースとして初めての出会いでした。

この時代を境に資本力のある中小調剤薬局チェーンは銀行借り入れをしながら、病院の発行意思と関係なく病院前の一等場所確保に専念して行きました。私と川久保は自分たちの夢を叶える為調剤薬局のバブルに乗らず、牛のよだれのごとく、年間1軒程度の開設を目指し自己資本だけで進めました。
2012/04/10(火) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり  第15章 大規模病院の処方せん対応 扇町カイセイ薬局の開設

     15章 大規模病院の処方せん対応 扇町カイセイ薬局の開設

 

病院の処方せん応需を進める一方大規模病院の処方せん受け入れにも取り組みました。扇町カイセイ薬局は、大規模病院の処方せん応需を目的とした第一号店です。北野病院(大阪市北区)の処方せん応需を目的としたもので、平成43月に開設しました。

医薬分業について、病院の取り組みがそれほど進んでいない状況下で、「医薬分業とはどんなものか勉強したい」という北野病院側からの申し入れがあり、病院の幹部の方々が集まっている勉強会に呼ばれました。

その時に、「この病院は、大阪の中でも早い時期に処方せんを発行するのではないだろうか」という感じを受けました。

そこで、扇町カイセイ薬局を開設することになるのですが、大規模病院の処方せんを受け入れるのはどうすれば良いのかまったく判りません。大規模病院の処方せんを応需している他の薬局に聞くということは、過去の経験からも二度としたくありませんでしたので、聞きに行くこともしませんでした。そのため、病院の薬局長にお聞きしたりして取り組むしかありませんでした。その当時、長尾専務が薬局長と親しくしておりましたので、病院における医薬品の種類の把握や、どのようにして医薬品を調剤しているのか、などいろいろお話をお聞きしながら極秘のうちに準備を進めていきました。

1年ほど準備を進めた段階で、「眼科の処方せんから始める」という情報が入りましたので、「それなら受け皿の薬局を作りましょう」と準備を始めました。現在の北野病院ではなく、移転前の病院の時でした。病院は、平成13年、旧病院の北隣にあった旧扇町中学校の跡地に新築移転しました。旧病院の用地は、大阪市との土地交換により、平成16年に2小学校の統合によって誕生した大阪市立扇町小学校になっています。

旧病院の時は、患者の流れを考え、病院を出て梅田方面に店舗を開設しました。この店舗は、途中で家主が破産しましたが、裁判所の競売で買い取る事が出来ました。

当初の店舗は15坪ほどの非常に小さいスペースでした。現在の扇町店の半分ほどだったと思います。眼科が主な処方せんでしたので充分なスペースではなかったのですが、周辺ではそこしか借りることの出来る場所がなかったと云うのが実態です。その後、処方せん発行診療科も処方せん枚数も徐々に増え、順調に推移し始めました。

そして、病院の新築全面移転となるわけですが、その時には「処方せん全面発行」という計画になっていました。そのため、調剤薬局チェーンが続々と出店し、結局8軒ぐらい調剤薬局が乱立いたしました。育星会も一軒でスタートしましたが、JR環状線の天満駅か地下鉄の扇町駅の方に行く方向の場所に天満カイセイ薬局を開設しました。梅田の方に行く人の為の扇町カイセイと、天満や扇町の方に行く人の為の天満カイセイの二軒体制としました。

当初は唯一の応需薬局でしたが、他の調剤チェーン薬局も出現し、「嫌だな」と悲しみ、内心怒りすら覚えました。長年マンツーマンで応需して来た当社にとっては嫌だな~という観念が頭の中から消えませんでした。

当初は一軒でスタートしましたが、今から考えますと、枚数が多くなれば好むと好まざるとに関わらず他店が出てまいります。その時に自社は一軒だけで競合の道を行くか、それとも、医療機関の周囲を囲むように自社が出店するか決断を迫られましたが、競合の良さが解ってきた時期でもありましたので、自社の方向として一軒だけの競合を選びました。その時にカイセイ薬局の標語として「あなたにやさしい薬局・薬剤師」が出来上がりました。

これを境に頭の中が一変致しました。「競合というのはすごく良いな」を感じた時でもあります。それまでのマンツーマンよりも、患者さんを反面教師として社員達がすごく患者さんのことを考えてくれるようになりました。社員が競争の原理の中で働きますので、細心の注意をして業務に当たります。毎日日報に付いて来る付箋も徐々に減り始めました。「競合は社員の力を十二分に発揮させるなあ~」と考えるようになりました。従って、その時を境に競合への憧れが芽生え出しました。

同じ頃、病院前第一号店の尼崎カイセイや羽曳野カイセイにも競合店が出来始めました。「辛いなあ」という感じよりも、「これでやっと創設の時に夢に描いた薬剤師が当社に出来始めるな~」という嬉しい気持ちでした。

新しい北野病院の受け皿である天満カイセイ薬局と扇町カイセイ薬局は、みんなが競合の良さを感じ始め、カイセイ薬局の社風が出来始めた頃だと確信しています。

 

 

2012/03/10(土) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり  第14章 羽曳野カイセイ薬局の開設

     14章 羽曳野カイセイ薬局の開設

 

羽曳野カイセイ薬局は、尼崎カイセイ薬局の半年ほど後の平成34月に開設しました。羽曳野市の島田病院の処方せん応需のためですが、病院長の島田先生とは、社会医療研究所の勉強会の後で何人かのグループ毎に分かれて熊本城へ見学に行った時に一緒の班になりました。

それまで島田先生とは顔見知り程度で、親しくお話させていただいた訳ではありませんでしたが、その観光の時に「大阪の羽曳野で病院をやっている島田や!」ということを初めてゆっくりお話を聞きました。そしてお話しているうちに、島田先生は天王寺高校の十数年後輩であることが判明し、しかも、同じバスケットボール部のOBであることが判りました。私自身は、バスケットボール部のOB会の理事をしていましたので、「その目谷さんでしたか」と言われました。それ以降急速に親しくなりまして、島田先生から「僕のところも分業を考えているので受入を考えてほしい」と話されました。

そこで、合志さん、島田さんとの分業がほぼ同時に実現することになりました。当時は、枚数の多い病院を狙って調剤薬局が出店されつつある状況で、枚数の多いところは薬剤の種類も多く、薬の利益がまだ大きかった時代ですから、その「利益がなくなる分をどうしてくれるのか」というお話が結構出ていました。

ところが、有り難い事に合志さんとか島田さんは最初から親しい関係で進みました関係か、そのようなお話は一切出ませんでした。

島田病院につきましては、対象医療機関は最初は島田病院だけでした。そのため、病院の敷地に隣接した建物の1階を借りて薬局を開設することとし、許可も受けることが出来ました。当時、調剤薬局開設に関しては、「経済的・機能的・構造的に医療機関から独立していること」という3条件がありました。これをすべてクリアしていたわけです。薬局は、幹線道路(大阪府道31号線)に面した場所で、病院は前の方に駐車場があり、施設は奥にありました。

 ところが、病院は、数年して隣の土地を購入されました。薬局の隣にもなるわけですが、そこに老健施設を建てられました。そうしますと、外から見れば薬局は島田病院の中に離れ小島のように囲まれた形になります。病院の中に薬局がポツンと建っている状態です。「これでは病院の薬局と同じだ」ということで、大阪府の保険課に呼び出され、是正を求められました。同じようなケースが茨木市でも存在し、薬局が移転されたそうです。そのため、「カイセイ薬局も移転してほしい」と言われました。指導ではありますが、強い要請でした。

 その場では、「検討します」とだけ答えて帰りました。川久保と相談しましたが、周辺はそれぞれ一規格が広い土地ばかりで、一部だけを購入するわけにはいきませんでした。従って土地を購入するのに何億円もの費用を要しましたので当社ではとても困難でした。道路の向かい側にも空き店舗がありましたが、患者さんは特に整形外科の受診者が多かったため、道路を渡ってもらう事が大変な事でした。

 単なる指導ですので、「そのままいく」という選択肢もあったのですが、「いずれそのような指導もなくなるだろうなあ・・・」と思いつつも結局移転の道を選びました。現在では、このような場所の薬局が方々に見られますが、当時はそれを拒否することは出来ませんでした。

 結局、現在地の地主さんに頼むことになるわけですが、地表の道路面から数メートル下がった土地であったため、「ご自分の費用で嵩上げをしてもらえるのであれば構いません」ということで一部を借りることが出来ました。そして、鉄骨で嵩上げして薬局をつくりました。そのため、思ったよりも費用が嵩みましたが、一部借りでしたので少なくて済みましたし、土地を全部借りなくても済みましたのでホッとしました。平成126月のことです。

 この時期からは、いわゆる「リベート分業」と呼ばれる状況が盛んになってきました。「薬で失う利益を何かで埋める」ということです。育星会として営業に行くと、このような申し込みが少なくありませんでした。そのような場合は、「患者のため、薬剤師のために分業に取り組む」ことを目標としている育星会としては、「質の充実が出来ない」ということで、「泣く泣く断る」というケースもたくさんありましたが、逆に借入金がない会社を慌てずにゆっくりと増やして行く事が出来ました。

今でも大阪市内を自動車で走っていますと、そのように断わられた病院が何軒か目に触れることがあり、懐かしい思いが致します。

 病院分業が急速に進んだ時代ですが、合志・島田と2軒の病院の処方せん応需からスタートした経験からは、「じっくりと取り組めば病院の処方せん応需もさほど問題ではない」ということを強く感じた経験でもあります。

今では、川久保や私の周辺には、時代の流れに影響されない素晴らしい先生方が沢山居られたお陰だと、育星会の運の良さを喜んでおります。

現在までの病院からの処方せん発行は、病院の合理化の観点から進められていますが、「患者のために処方せんを出すという考えで進めると、どのように変っていくのであろうか」ということも常々感じていました。「病院には処方せん不可の患者はいないのだろうか?」、「夜中の患者に対する投薬は今のままでいいのだろうか?」、「街の薬局で薬を買う方が安い薬があるのはどうしてだろうか?」などいろいろな疑問を持ち始めた時期でもありました。

2012/02/10(金) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第13章 病院応需の1号店 尼崎カイセイ薬局の誕生

尼崎カイセイ薬局は、平成28月に開設しましたが、その経緯について考えますと、病院に転換を図らなければならないということで、岡田玲一郎先生の社会医療研究所に入って毎月勉強していました。その毎月の東京への行き帰りに新幹線で一緒に行ったのが、合志病院(尼崎市)の合志事務長さんでした。合志さんは病院長のご令弟で、合志病院を診療所から病院へ転換される時に中心的存在として力を尽されました。その合志さんと上京をともにするにつれて、だんだん親しくなりました。

その合志さんが、「一生懸命に病院を経営しているのですが、一向にゆとりが出てきません」と言われるのです。「考えてみると、薬の支払いが非常に多い。どうも余分なもの、ロスがありそうだ。だから、薬は手放してみようと考えているのです。いつもそのように考えて研究会に参加しています」と言われました。

そこで、「すぐに、とはいきませんが、当社も時期が来たら薬局開設を考えます」と話していました。

そして、開設の半年ほど前に、合志さんから「いよいよ薬を外に出さないと、病院が合理化できない」というお話が出て、「それでは薬局を開設しましょう」ということになりました。

開設に当たっては随分と苦労がありました。まず、土地勘です。大阪の会社ですので、大阪の地理についてはある程度知っており対応はできますが、兵庫県についてはあまり知りません。尼崎市は兵庫県といっても大阪府(大阪市など)に隣接していますので、距離的には近いのですが、やはり大阪府とは違います。

実際に現地を見に行きましたが、候補地は2箇所ありました。1箇所は病院の正面側で、大きな道路に面している場所で、もう1箇所は病院の裏側でした。正面側は病院を出て20mほどぐるりと回らなければならない場所で、裏側は病院の裏口から駐車場を横切らなければならない場所でした。表通りは地域の人に目立ちますが、裏側は目立ちません。ただ、裏側には阪神医生協診療所(阪神医療生活協同組合)もありました。2箇所で悩む時に、正面側は広い表通りに面していましたが、裏側は阪神医生協診療所から処方せんが発行されることも期待できました。

阪神医生協診療所の隣のマンションが建築されたばかりで、1階が店舗スペースで空いていました。前の道路は人通りが殆んどありませんので、店舗としての条件は良くありません。借り手がなく空いていましたので、ちょうど良い場所でした。

病院からは裏側でしたが、ちょうど病院が駐車場を整備され、それまで狭い駐車場の自動車の間をすり抜けなければならなかったのに、整備後は難なく通れるようになりました。裏口からでも出ることができるようになったわけです。

何年か後には表通りの場所に他の調剤薬局が開設されました。そのため、処方せんも半分以上が新しい薬局の方に回るということになりましたが、そのような時に阪神医生協診療所が処方せん発行を開始しましたので、その処方せんも大きなウェートを占めるようになりました。

そこで学んだことは、病院相手に調剤をしようとすれば、必ずライバルが入ってくるということ、採算さえ合えば、横とか前に薬局が来るということです。これが、「次の時代には競合時代の薬局ということになる」という考え方の発端でもありました。そして、高知の近森病院の時に、病院に隣接するのではなく、市民に見える場所を求めることに繋がります。

尼崎の場合は、病院に向いた薬局づくりでしたが、「患者サイドに立たなければならない時がいずれ来るだろう」ということを予感出来ました。病院の方を向いて市民には背を向けた薬局か、逆に病院を背にしても市民の方に向けた薬局になるのかという判断を求められるときが必ず来るだろうという判断です。時代が変わるだろうという予感を感じた経験です。

その後、合志さんは病院を辞められましたが、病院について豊富なご経験や知識を持っておられましたし、私自身もいろいろとお世話になりましたので、ファーマサポートという会社を設立して、患者の観点から薬局の調査を行い、薬局を支援しようと考え、合志さんに中心となっていただきました。

2012/01/10(火) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第12章 新たな取り組み 病院処方せんへの転換

診療所の処方せんに対応する薬局を開設してきましたが、店舗数が増えてくると診療所のオーナーである医師とサラリーマンである薬剤師との、どうしても埋められない溝、本質的な違いがいろいろ出てきました。そこで、病院の医師であればサラリーマンであるため、サラリーマン同士で理解し合うこともできるだろう、ということで病院への転向を始めます。高石を開設する2年ほど前、昭和61年頃から構想として練っていました。

しかし、簡単に病院といっても、全く実態がわかりません。そのため、話を持っていく糸口もありませんでした。どうしたら良いかということで悩み、東京で調剤薬局のチェーン展開を始めた某法人薬局のオーナーに相談しました。それほど親しくないのに、のこのこと出かけて行きました。「どうすれば病院との分業ができるのか」を教えてもらうためです。2泊して頑張りましたが、最初は「ケンモホロロ」の状態でした。「目谷さん、そんなことは自分で考えなさい」と叱られました。

後から考えると、「よくも厚かましく行ったな~」と思いますが、その時は、「我が社はこのままいくとおかしくなる」と必死でした。川久保とも話しましたが、「会社が潰れるか、一段と伸びるのかの瀬戸際だ!」ということで、ちょっと名刺を交換した程度の知り合いではありましたが、「藁をも掴む」という想いで必死でした。

そして、「何か取っ掛かりはないかな」「病院のことを勉強したい」と考えている時に、岡田玲一郎先生と知り合いました。社会医療研究所を主宰されている先生ですが、日本の病院の転換期でしたので、新しい状況に乗って生き残っていくために、民間病院を集めて勉強会を開いておられました。その存在を聞きまして、参加を希望し、気持ちよく受け入れていただきました。開催場所は東京でしたが、毎月の勉強会に参加させていただけるようにしました。

岡田先生はご自身薬剤師で、病院の事務長などを経験され、勉強会を立ち上げられたのですが、私が訪ねた東京の某チェーン薬局の社長がその勉強会の副幹事のような立場の方でした。「これだ、このような組織を使わなくてはいけない」「これを逃しては発展できない」と考え、必死の覚悟で参加し、病院のことを勉強しました。

病院の合理的経営の一環として処方せんを発行するということがあったのですが、毎月上京して勉強し、全国の民間病院の先生方と親しくなりました。周りは医師ばかりで、薬剤師はほとんどおられませんでした。それまで、病院のことは全く知りませんでしたので、随分と良い機会となり、すごく勉強になりました。

しかも、普通の勉強会は病院の幹部級が参加するのですが、この会の良いところは、殆んど病院の院長か理事長が出席していることです。また、社会医療研究所とは別に、岡田先生のファンの医師が集まる場がありましたが、私もその中に入れてもらいました。ここでは、少人数でしたのでグングンと病院の知識が入って行きました。

そこで知り合ったのが、尼崎市の合志さん(合志病院)、羽曳野市の島田さん(島田病院)、大阪市東住吉区の浅田さん(森本病院)、西区の海北さん(多根病院)、高知市の近森さん(近森病院)などです。この後、これらの病院の処方せん応需に取り組むことになります。

病院と分業することについては、殆んどの調剤薬局が枚数の多いところを求めて病院対応に入っていきますが、当社の場合は、枚数は重要視しておりません。「いわゆるオーナーである医師とサラリーマンである薬剤師との本質的な違いが、マンツーマン分業の調剤薬局を最終的におかしなものにする」「薬剤師までおかしなものになってしまう」という危機感を感じていましたので、病院に転換しようと考えたわけです。

ですから、これから進んでいく方向も、「枚数が多いから」という考えよりも、まずは、病院の理事長や院長の人柄を重視し、その上で病院の進む方向を見定め、その方向に合わせられるかどうかで判断しました。以後10年ほどの間は、何年かのスパンで病院処方せん応需が進んでゆくことになります。

2011/12/10(土) 00:00

寄り道Ⅲ 恩師 吉矢佑先生の思い出

元大阪府薬剤師会会長、元日本薬剤師会会長の吉矢佑先生がお亡くなりになりました。

育星会の歴史を考える時、昭和46年頃、奈良の国際ホテルで開催された薬局協励会の研修会における吉矢佑先生のご講演がきっかけとなったことは、第1章でも触れましたが、今日の株式会社育星会があるのは吉矢先生のお陰であると申し上げても過言ではありません。

ご講演を聴き、医薬分業に関する興味を持ちましたので、吉矢先生に「私は今後どうすれば良いのか」と聞きに行きました。その時に、吉矢先生は、「まず一つは医療用医薬品について勉強しなさい」と言われました。そして「もう一つは、医薬分業といっても資金が必要です。街の薬局で資金がなかったらついていけない。そのため、薬局の中である程度金銭的にゆとりを創っておきなさい」ということでしたので、その通りに実行しました。

そして、数ヵ月後に、吉矢先生に呼ばれました。「実は、目谷さんを大阪府薬剤師会の理事にとの推薦があったのですが、僕はまだ早いと答えました」と言われるのです。その理由として、「現在、堺薬剤師会は非常に混沌として、大阪府薬支部の中で最も大きい支部なのに、その力が発揮されていない。そのため、出来るだけ早く若い力で統一し、一致団結した力強い薬剤師会になるよう頑張りなさい」と、まずは堺で頑張るように言われました。

そこで、気の合った若い薬剤師が集まり、堺薬剤師会の理事になり、仲間を呼び寄せて、古い先生(中井先生、門田先生、大友先生)を会長に戴き、その下で若い薬剤師が主力になって活動するという体制を築きました。数年後、組織が固まり、古い先生方にも気持ちよく協力していただけるようになりました。

ある程度堺薬剤師会がまとまった時期に、大阪府薬の副会長であった岡本先生から大阪府薬の理事に就任するよう要請されました。そこで、堺薬剤師会とともに大阪府薬剤師会の理事に就任しました。その時は、吉矢先生はご病気で一時会長を退いておられましたが、私自身には吉矢先生の影響が強かったので、大なり小なり、いろいろとご相談に伺い、ご指導を仰ぎました。

日本薬剤師会の代議員にもなり、日本薬剤師会全体を見るようになりましたが、その時にも、いつも新幹線の行き帰りに、吉矢先生の隣に座らせていただき、いろいろとご指導を受けました。育星会を立ち上げ、新しい店舗を作るたびに、あるいは方針を転換するたびに、吉矢先生にアドバイスを受け、素晴らしいご意見とご見識をいただきました。

私が引退した後も、何ヶ月に1回かは吉矢先生をお訪ねし、先生のご壮健の様子を拝見しながら、お話をお聞きしました。それが今日まで続いておりました。

その後、私自身、体調を悪くして1ヶ月ほど入院したのですが、退院して自宅へ帰りますと、吉矢先生から手紙が届いていました。内容は、「長年開局してきた吉矢薬局を閉鎖することを決めた。高齢の医師が閉院することもあり、私も今後続けてやっていける状態ではない」と書かれていました。びっくりして、退院早々ではありましたが、吉矢先生のところへ飛んでいきました。関係方面にすでに手紙を出し始めておられ、医師にもお話をされたということで、閉局の計画も準備もすでに出来上がっていました。

そこで、「ちょっと待ってほしい。お手伝いできることがあればお手伝いしたい」と話しました。しかし、その時は、既に私自身引退した身でしたので、独断で判断するわけには行かず、それでも、「自分が育った土壌を何とかしたい」という強い思いがありまして、飯田社長さんに相談し、同道していただき再度吉矢先生をお訪ねしました。飯田社長さんにも、会社として冷静に判断してもらおうと考えていました。

育星会では、会社として在宅に力を入れている中で、拠点が東大阪の長田だけしかなく、北部に拠点がほしいと考えていた時でしたので、飯田社長さんは「吉矢薬局を北部の拠点に出来る」と考え、また、駅前という立地から、医院が閉院しても「すぐに新しい医院が出来るだろう」と考え、それほど心配する必要はない、薬局を継続しても良いとの判断でした。

そのことを吉矢先生に申し上げると、大変喜ばれ、カイセイ吉矢薬局が誕生しました。平成189月のことです。「吉矢薬局の名を残したい」と申し上げると、先生は非常に喜ばれたことが印象に残っています。「必要があれば何時でもお返しいたします」という条件を付けてお引受けすることになりました。

そして、吉矢先生は全国的な存在で、全国各地から訪ねて来られる方が沢山おられますので、ビルの2~3階のご自宅にわざわざ上り下りしていただくこともお気の毒だろうと考え、それまで事務所として使われていた1階の店の奥の部分をそのまま残すよう店舗設計を行い、事務所として使っていただくようにしました。後々聞いた話ですが、このことも喜んでいただいていたようです。

吉矢先生は、店舗改装中も2~3階のご自宅で生活されていました。かなりの騒音ですので、建設会社が「騒音が激しい数日間だけでもホテルに泊まられたらどうですか」と勧めましたが、「近所の方にはかなりの騒音でご迷惑をおかけしているので、『皆様も騒音でご迷惑でしょうが、私はそんな中で生活しているのです』と話せばお許しいただけると思う」と言われて、ご自宅での生活を貫かれました。この辺りも吉矢先生らしいエピソードだと思います。

吉矢先生は、土曜日の朝に亡くなられたのですが、私は、その直前の木曜日にお訪ねしました。川久保会長が亡くなられた日もそうでしたが、自分自身、何かを感じたのかという確信はありませんが、吉矢先生はお元気でした。しかし、いつものお話と違って、自分の死後のプランを持ってこられました。戒名とか葬儀とかの話をされ、葬儀は2親等までの家族葬とすることなどのお話をいただきました。その時は、私自身非常に驚き嫌な予感を感じましたが、吉矢店の店長などにもこの話はしていたようですので、安心して帰りました。しかし、私自身は初めてのお話でしたので、何となく不安な気持ちでした。いつもは、1時間ほどでお暇するのですが、その時は2時間半もお話をされました。

そして、土曜日の昼に店長から自宅に電話があったのですが、「吉矢店の店長から電話です」と聞いただけで嫌な予感がして急いで電話口に出ました。「吉矢先生に何かあったの?」と聞くと、「今朝亡くなられました」という報で愕然とし、びっくりしてすぐにお伺いしました。

私は、川久保雅弘、吉矢佑という大切な2人を失いましたが、奇しくも、川久保会長の場合は亡くなる日の午前中に面会し手を握ることができ、吉矢先生には倒れられた1日前に会うことができました。大切な人を亡くしましたので、私のことを心配して励ましの連絡をいただける友人が沢山いましたが、それほど私自身にとって大切な人でした。

縁と言いますか、私の人生において3人の大きな存在があります。まず、私を教え育て、この道に導いていただいた吉矢佑という恩師を知り得たこと、そして、良き友であり、良きライバルであった川久保雅弘を得て共に苦労が出来たこと、そして飯田彰という素晴らしい後継者を得たことです。特に、吉矢佑先生は、家内も娘も、その名前が出ると直立不動になります。吉矢先生とのエピソードは書き出したら限がありませんが、魅力的な人でしたし特別の存在でした。

2011/11/10(木) 15:29

(株)育星会の誕生への道のり 第11章 高石カイセイ・元町カイセイ薬局の開設

11章 高石カイセイ・元町カイセイ薬局の開設

 

大阪府高石市に高石カイセイ薬局を開設したのが昭和633月ですが、これが株式会社育星会として診療所対応の最後となります。平成81月に神戸市中央区に元町カイセイ薬局を開設しましたが、これは高石カイセイ薬局の延長にあるもので、新たに診療所を開拓したものではありません。

高石カイセイ薬局につきましては、玉川先生という、ミユキ薬局の谷和先生、平尾カイセイ薬局の山北先生の1年後輩の先生ですが、谷和先生、山北先生が医薬分業をされているので、「自分も分業しよう」と考えられ、「ちょっと話が聞きたい」という要請が私にありました。

 玉川先生は、高石でのオープン時は整形外科だけでしたが、数年後に小児科医が勤務し、整形外科と小児科を併設していました。患者さんもそこそこありましたので、「成り立つだろう」と判断して受けましたが、最後のマンツーマン対応の薬局となります。最初の原稿で紹介しましたが、育星会は35年の歴史の中で、10年ごとの単位で処方せん調剤への対応が変遷しています。その中で、高石カイセイ薬局の開設は診療所対応のマンツーマン分業の限界を感じた時期でした。

診療所の場所は、国道に面してはいても、薬局を開く場所もあまりありませんでした。開設場所を探している時に、たまたま診療所の隣の建物の1階が空いているということで、借り受けて始めることになりました。ところが、その後、8年ほど経過して玉川先生は出身地の神戸に戻って開業することになり、高石の診療所は小児科の先生が引き継いで診療することになりました。

玉川先生は神戸の元町にビルを建てて診療所を開業し、その1階に「薬局を入れたらどうか」と誘われ、元町カイセイ薬局を開設したわけです。

そして、高石と元町は、平成15年の10月と11月に社員のA氏とB氏に譲渡しました。本人の独立希望が強く、それぞれ店長をしていた薬局を譲渡したわけですが、本人の資本が必要ないように、スムーズに移行できるように、退職金と相殺するなど資金なしに開業できるような工夫をして譲渡しました。

元町は処方せんが少なく、しかも立地が駅前ということでOTC薬も販売していました。当時OTC薬は、400万円ほどしか売れませんでしたが、B氏に譲渡した後はたちまち1000万円ほどの売上になりました。彼にはその方面の才能もあったということでしょう。

2011/10/10(月) 00:00

(株)育星会の誕生への道のり 第10章 第一ビルカイセイ薬局の誕生 

10章 第一ビルカイセイ薬局の誕生

 

カイセイ薬局として3番目にオープンしたのが第一ビルカイセイ薬局です。大阪市北区梅田の第一ビルに開設しました。昭和6110月のことです。

大阪市の都市再開発によって誕生した「大阪駅前第一ビル」ですが、その中の透析クリニックからの処方せんを応需するために、2階に開設しました。2階(一部3階も)に多くの医療機関が入居し、医療フロアーとなっていますが、11階に「沖辺クリニック」という人工透析専門のクリニックが入っており、その処方せんを中心に調剤しています。その先生を紹介してくれたのは、私の友人で今は亡き白井大禄先生(6章ホシ薬局で登場)です。「処方せんは少ないが受けてもらえるだろうか」との話で、取り敢えず見学に行きまして、「将来的には他の医療機関からの処方せんも期待できるのではないか」と判断し、開設に踏み切りました。

当初検討段階では、開設する場所がなく苦労しました。2階に12~13坪と狭かったのですが、スペースがありましたのでオープンすることになりました。透析の処方せんが30枚か40枚程度、それ以外で10枚程度と、合計40~50枚程度で始めました。しばらくして、沖辺先生は辞められ、代替わりしましたが、処方せんは続いています。その後、1階の眼科からも処方せんが来るようになり、現在に至っています。

当時、福島区にあった阪大病院からの処方せんが流れてくることも想定されましたので、ビルの1階の幹線道路に面した場所も考えましたが、すぐ近くに在来の一般薬局があったことや、医療機関の近くの方が良いという判断から2階に開設することになりました。当時は、「医療機関に顔の見える薬局」という位置づけを重視していました。現在の考え方とは全く違っていました。

この考え方、即ち「医療機関に顔の見える薬局」から「地域住民に顔の見える薬局」へ転換したのは平成101月に開設した高知駅前の駅前カイセイ薬局(現在は高知カイセイ薬局)がきっかけで、その後、我が社は徹底して「地域住民に顔の見える薬局」を追求して行きました。

しかし、昭和61年当時はそこまで考えることができず、常に医療機関を意識した立地を追及していました。

人工透析は、勤め帰りのサラリーマンが受診しているケースも多く、夜遅くまで調剤に取り組まなければならないのですが、患者に渡すまでに時間的に余裕があるため、他の医療機関の処方せんを受けるのに支障が出るというわけではありませんでしたので、混乱するということはありませんでした。

この経験が、後に老健施設の処方せん調剤を取り扱う時などに役立つことになりました。

2011/09/10(土) 00:00

★寄り道Ⅱ(バトンタッチは誰に?)

引退してからは、ほとんど公の場には出て行かないのですが、ひょんなことから、最近、幾つかの旧人達との集まりに出て行く機会がありました。現役時代に一緒に仕事をしていた人たちですが、そこで言われたのは、「君たち(川久保・目谷)は、一人ひとりと会っている時は全然怖くはないが、二人一緒になるとすごく威圧感を感じた」と言われました。その時に共通して言われたことは、「飯田君を後任に選んだのはさすがだと思った」ということです。そのため、急遽、この問題でブログを書くことにしました。

飯田君の良さを褒められることは多々あるのですが、公の場に出て行く機会が滅多にありませんので、今回のように度重なるお言葉をいただく事は珍しいことだったのです。

飯田君は「嫌味がなく人間性が良い」ということなのですが、そこで、飯田君を後任にお願いした経緯を後輩の人達に少し紹介しておきたいと思います。

後任の社長問題。これは川久保が天国へ行く前後でがらりと変わりました。川久保が亡くなったため、川久保の主張がなくなったわけです。

川久保は、育星会は会長でしたが、JOVYは社長でもありました。彼は、JOVYを上場したいという考えを持っておりました。そのため、育星会と合併しようと考えていました。ところが、株価は10倍ほど育星会の方が高いわけです。資産にしても、収益性にしても全然違うわけですが、彼はその考えに固執していました。

そして、上場するためには、「外部から良い人材を引っ張ってくる方が良い」と考えていました。つまり拡大路線で、今の大手チェーンのような状況です。社長についても、川久保は「現状維持で進むのであれば、社長は飯田君が最も良いだろう。しかし、上場すればそうはいかない。拡大できる能力のある人材を入れるのが当たり前」という考え方でした。

しかし、私自身は、「上場すると、上場は『株主のために働く』『利益を追求する』ということが当然で、患者のため、そして会社の社員、従業員のために働くという、われわれの職業とは少し馴染み難いものだ」と思っていました。

ですから、育星会の社長として、上場することには反対で、時代の流れについていける規模の30軒ほどにとどめ、入れ替え制度にして社員に譲渡することも含めて競争時代の質への転換に備えようと考えておりました。川久保との長年の友人関係、信頼関係から、合併については真正面から反対はしていませんでしたが、事が進んだら、事前に合併反対の意志を明らかにしようと思っていました。

彼は彼なりに、私利私欲ではなく、JOVYを含めた構想の中で、拡大しようと考えていたのですが、私自身は「調剤薬局は拡大は馴染まない、質を整えることしかない」という考えでした。何故なら、拡大しても国の施策・方針によってがらりと変わってしまいます。このことは医療機関の移り変わりを長年目の前で見ていたものですから、調剤報酬の儚さは言うに及ばずでした。従って、苦難の道が来ても対応できる体制でやっていこうと考えていした。

その点では、二人で決めかねていた後任の社長は、彼が亡くなったのを契機に状況ががらりと変わりました。

私自身は、川久保の闘病生活のために、1年間会社を留守にしていましたので、会社に戻っても、昔のように愛着がもてませんでした。川久保の死亡とともに、「生涯かけて医薬分業へ取り組もう」という強い意欲が消えてしまっていました。自分たちが創った会社ですが、気持ちが萎えてしまっていました。「ちょうど良い。これを契機に引退しよう」と考えました。

そこで、引退するのであれば後任の社長を選ばなければなりません。候補者の中から選ぶに当たって、規模は小さくても力強く生き抜いていく薬局にするためには何が必要かを考えました。

企業のトップはとても辛いものです。評価されることもありますが、孤独で、曲解されたり、悪く言われたり、そのようなことに耐えていかなければなりません。

私も川久保も、そのようなことに耐えられたのは、「ニコイチ」の関係ということもありますが、二人とも家庭・家族を大事にしていました。そのため、どれだけ誤解され批判されても、「最後は家内とか子供が理解して信じてくれれば怖いことはない」と考えていました。これが人生の最大の武器になりました。責任のある立場で仕事をしていく上で、「家庭が大事」ということを解っていましたので、「家庭がしっかりしている者が社長になるべきだ」という信念を持っていました。

そのため、社長を決める前に、幹部全員と家族同伴で海外旅行に行きました。その場で、どのような家庭を築いているか、会社と家族の関係などを観せていただきました。そこで、飯田君の人柄と家族の良さを再確認できました。そこで「間違いない」と判断し、帰国してすぐにバトンタッチすることを表明しました。これについては、ほとんどの社員が当然のように賛同してくれました。

川久保が亡くなったので、私も彼と戦わずに済みました。川久保が生きていれば、袂を分かつ戦いになっていたと思います。彼と戦えばコテンパンに負けていたと思います。川久保は川久保で「目谷は負けたふりをしてもしぶとい奴だ」と思っていたと思います。よく、「死んだふりをしやがって!」と口癖のように言っていました。

川久保は「社内で人材を求めるのなら飯田君しかない」といつも言っていました。

育星会の気風とか将来の方向性についてよく理解できている飯田君が育星会を引き受けていただけた事を感謝しています。

2011/08/10(水) 00:00