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(株)育星会の誕生への道のり 第27章 紀三井寺カイセイ薬局の開設 初の大学病院応需

 27章 紀三井寺カイセイ薬局の開設 初の大学病院応需

 

紀三井寺カイセイ薬局は和歌山県立医科大学附属病院の処方せんを応需するために平成129月に開設しました。桃谷カイセイ薬局開設から1年半後でしたが、大学病院の処方せんを応需する最初の薬局でした。

卸からの情報もありましたが、医薬分業に関して、国の方針としては処方せん発行を促進するというものでありました。つまり、行政サイドでは医薬分業を推進する方針であるのに、その当時は、現場、つまり病院サイドの動きがなかなか進まないという状況があったわけですが、地域の大学病院で厚労省の考え方に沿った取り組みをする場合、行政サイドから出向しているケースがあれば、国の方針に沿った対応をするだろうと考えて取り組みを進めていました。そのような時に、和歌山県立医科大学附属病院は薬剤部長に県の薬務課長が就任されました。

育星会として、次の薬局開設場所を検討していた時期に、行政出身者が薬剤部長に就任したのが和歌山医大でした。高梨薬剤部長ですが、医薬分業にも積極的で、和歌山医大の分業率を上げることが、地域の分業率を引き上げるというお考えでした。医大が処方せん全面発行の動きがある前から、いろいろと高梨部長とお話しをして、ご意見も頂戴してきました。ですから、病院自体は、当初は全面的な処方せん発行の考えは無かったようですが、高梨部長のご説得もあって、「地域のお手本となる」ため、分業の道を進める方に傾いて行きました。

地元の和歌山県薬剤師会でも、医薬分業の推進のため、和歌山医大に対して処方せん発行を求めて活発な活動を展開され、移転以前の病院では近くに会営薬局も開設していました。育星会としては、全面的な処方せん発行の決定以前から薬剤部長と話しができるようになりました。院内の処方を勉強したり、医師の先生方にも顔見知りになったりして、準備を重ねてきました。当時の高梨薬剤部長には大変お世話になりました。残念ながら、高梨様は既に故人となられましたが、その後の歴代薬剤部長にもご指導いただきました。

和歌山県立医科大学は、平成109月に和歌山市の中心部から紀三井寺に移転し、翌115月から新しい附属病院で診療が開始されました。ただ、地元の抵抗が強く、対応に時間を取られ、育星会の薬局開設は予定より数ヶ月遅れとなりました。薬局は東出口を出た場所に開設しました。薬局開設の場所は、何箇所か候補地がありましたが、土地が広過ぎたり、条件の問題もあってなかなか借りることができませんでした。その中で、駐車場として利用されていた場所を借りることができました。

借りるまでは何度も足繁く通いましたが、借りることができてからは店舗の面ではスムーズに進みました。病院の正面玄関側はバス停がありますが、病院前には川があって、薬局を開設する土地がありませんでした。それに、和歌山は車社会で、自動車を利用する方が多いため、駐車場に抜ける東側の土地を確保することは最初からの計画でした。東側には病院の出入口からJRの紀三井寺駅までまっすぐの大きな道路ができるという情報もありましたし、東側の出入口を出た場所に土地を確保しました。

初代薬局長は徳野部長で、処方せん発行率が10%とか20%程度の時代でしたので、当初は薬局の周辺は雑草の生い茂る場所であったことや、処方せん受け入れ体制の整備などでいろいろな苦労もありました。

新病院では平成141月から全面的に院外処方せん発行となりましたが、そのため、紀三井寺カイセイ薬局2代目の薬局長となった天堀課長が患者対応などに大変な苦労がありました。天堀薬局長は13年夏に就任しましたが、当初は処方せんも10枚とか20枚という状況でした。徐々に発行率は上がっていたのですが、1310月から内科の処方せんが発行されるようになり、一挙に増え、発行率も50%ほどになりました。20枚、30枚の処方せんが突然100枚くらいになりましたので、その受け入れが大変でした。大量の調剤を応需するための作業台もありませんでしたし、処方せんを保管する設備もありませんでした。

徐々に増えるだろうという予測で体制の整備を図っていましたので、急遽、調剤器や分包器を導入しなければなりませんでした。141月からの全面発行は解っていましたので、それに対応できる設備・機器を急いで整えました。しかも、大学病院の処方せんは内容が濃いですから、スタッフも苦労しましたし、処方意図なども含めていろいろと勉強しました。

薬剤師会がFAXコーナーを設置して、処方せんは分散され大いに助かりましたが、当初は、門前薬局はカイセイ薬局しかありませんでしたので、そこで失敗することは出来ません。翌日の患者さんの数を予測したり、遠方の患者さんもおられますので、待ち時間が長くなる場合には配達も頻繁にありました。当時はみんな必死でした。その後、大手調剤薬局や地元の薬局も進出して3軒になり本当に助かりました。

開局に当たって、最も気を使ったのは建物の上に取り付けた「カイセイ薬局」の看板です。病院を出てすぐに看板が目に入るように建物の上部に付けたのですが、建物の方向に沿って看板を設けるのが普通であるのに対して、紀三井寺店は、病院から出て患者が目にする方向を意識して、建物に対しては斜め方向の看板にしました。そのため、建物と看板の位置が歪になっています。

しかも、当地はかなり風が強いため、屋根ごと看板が飛ばされないよう補強し、そのため費用もかなりかかりました。また和歌山県では、県独自の指導で薬局の入口を2箇所設けることは認められませんでしたので、入口を1箇所として、しかも動線を良くすることなど、店舗の面も苦労しました。

当時、薬局開設のポイントは2つありました。

1軒だけで集中して受けるということよりも、継続して100枚くらいの処方せんを丁寧に取り扱うということです。分業が成熟期に入ってくれば何が大切になるかを創造できたからです。最初は育星会だけでしたが、他の調剤薬局もすぐに進出してくるだろうし、何軒出来ても100枚ぐらいを維持し生き延びるためには土地の確保が最も大事な要点でした。当初何箇所か候補地がありました。その中から、区画整理で道路ができる場所を借りることになりましたが、その直後から土地の値上がりが始まりました。しかも、育星会の薬局としては、適度の競争が無ければいけない、中味がしっかりしていて、サービスがよく、しかも信頼できる薬局でなければいけません。すなわち「あなたにやさしい薬局、あなたにやさしい薬剤師」です。競争という観点から大手の進出は歓迎しましたが、100枚が20枚くらいに減るのは困ります。200枚になっても困りますし、100枚前後がいつも維持できるような場所を探しました。

和歌山は分業後進地区でしたし、特に育星会が最初の他府県からの参入者でしたので、激しい抵抗がありました。ただ、私にしましても川久保にしましても自らが開局者でしたので、どちらかと言いますと、既得権を主張してきた立場でした。そのため、地元の方々の意見はよく理解できましたので、地元のご意見は全て受け入れました。薬剤師会ではFAXコーナーを設置して処方せんを分散させるという方針でしたが、それもカイセイ薬局としての応需を100枚くらいに止めるためには、「むしろその方が大歓迎だ」とも考えました。

当初、候補地は医大の東側に3箇所あったのですが、他の調剤薬局チェーンだったら3箇所とも開設したかも知れません。「何故もっと出入口に近い場所にしないのか」という意見もありましたが、しかし、私は初めからその考えはありませんでした。1軒だけで、継続して100枚程度を受け入れることができる最適場所として考えていました。出入口に近い場所には関西の大手チェーンが進出しましたが、カイセイ薬局として100枚を維持するためには、内容が良くて、快適に薬をもらえて、サービスが良くて親切であるということであれば、患者さんは必ず逃げずに残っていくだろうと考えました。

全面発行までにはスタッフが育っていましたので、我々が直接出向かなくても対応できるようになっていました。桃谷に続いてスタッフに恵まれていることを実感し、競争の中を出店して逞しい社員が育って行ったことを誇りに思っています。

2013/07/10(水) 00:00