yoshio's blog

★寄り道Ⅰ(川久保君との別れ)

 「川久保」、呼び捨てで呼んでも、「ニコイチ」を自認していた彼と私の間柄からすれば許してもらえるだろう。

  平成14年の年末、川久保は奥さんを連れてタイへ旅行に行きました。その時、体調が悪く帰阪後すぐに胃腸専門病院へ入院しましたが芳しくなく、娘婿(内科医)の紹介で岸和田市民病院へ転院しました。そこで彼は膵臓がんだと診断され、それ以後苦しい1年余りの闘病生活が始まりました。まず、すぐにガン専門の大阪府立成人病センターへ入り、放射線治療と内服治療に専念しました。

  体格はやせ衰え病人らしくなりましたが、彼独特の精神は衰えず、色々なガンの雑誌を読み漁って膵臓がんの新しい治療に挑戦したがりました。毎日のようにインターネットで資料を取り持参して検討しました。まずアメリカのボルチモア州にあるジョンズ・ホプキンス病院で治療したいとの事でしたので、そこから私の準備が始まりました。

 日本のホプキンス病院の連絡事務所と連絡を取り、内容を確認しました。同病院には日本語の出来るスタッフが沢山居り、入院中も含め安心できました。次に、飛行機は同乗する医師やその他のスタッフを含め思った以上の人数が必要だという事が判りました。しかし、その時主治医からの紹介で北海道の時計台病院での「導管治療」を勧められ、彼は急遽行くことにました。導管治療とは、端的に言えば膵臓へ通っている血管の中から、一箇所の血管を通して病巣部位に制癌剤を直接導入する治療方法だと聞いております。内服と違い制癌剤の副作用が少ないというのが特性でした。彼は早速奥さんに付き添われ時計台病院へ入院しました。

 彼は「絶えず見舞いに来い」とは言いませんでしたが、「会社は飯田君(当時の専務・現社長)に任せていたらオマエはすることないやろう・・・」と彼の独特の毒舌で暗に顔を見せる事を望みました。私も意を得たりと毎週一度は札幌へ通うようにしました。食いたいと言う食べ物をトランクに詰めて運びました。知り合いのいない遠い地の北海道で入院していると、顔を見たときは何とも言えないほど嬉しそうな顔をしますが、暫くすると「オマエ何でまだ居るんや!」と言うので、「飛行機の乗る時間があるんで時間待ちしているんや!」と言い返しますが、「帰るわ」と言うと一瞬悲しそうに顔が曇りました。でも、今から考えるとこの三ヶ月は夫婦二人の思い出に残る貴重な三ヶ月だったのではないかと思います。

 導管治療も遅すぎたとの事で、期待していたほどの効果も得ず退院する事になりました。

  帰阪して来た時、伊丹空港の到着口から車椅子で出て来た彼を育星会とJOVYの社員たちが花束を持って沢山で出迎えに来ていたのには、全く聞いていなかったのでビックリしました。

 彼が如何に社員たちから慕われていたかを嬉しくもあり感嘆もしました。

  帰阪後、飯田君のお世話で自宅近くの近大附属病院へ入院しました。

  入院後は症状も芳しくなく、日に日に衰退して行くのが判りましたので、彼の顔を見てから会社に出勤する事にしました。

 近大病院では数ヶ月の闘病生活でしたが、彼は決して弱音を吐きませんでした。いつ行っても二人で言い合った昼食時の雰囲気のように強気でした。

 ところが一週間ほど物言わぬ日が続いたある日、いつもの様に彼を訪ねると、彼はベッドで真面目な顔でこう言いました。「今まで何回かアチラ(天国)へ出向いて行ったが、いつも満員だと追い返されたけど、今度は席が二つ空いていると言っているからオマエも一緒に行かへんか?」と。私は言いました。「アチラまでオマエの面倒見るのはイヤヤわ!!」、そうすると彼は「そうやなあ~~オレもアチラでオマエの面倒見るのはこりごりやわ!!」。

  病院を出て会社に着いたと同時に奥さんから電話がありました。「主人が亡くなりました」と・・・・。平成1621日のことです。合掌!

2011/03/15(火) 00:00