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(株)育星会の誕生への道のり  第16章 東住吉カイセイ薬局の開設

     16章 東住吉カイセイ薬局の開設

 

大阪市東住吉区中野に東住吉カイセイ薬局を開設したのは平成54月です。

大阪で社会医療研究所の研修会の後、所長の岡田玲一郎先生と夕食をご一緒させていただいたのですが、その場に森本病院(大阪市東住吉区)の浅田常務理事と多根病院(大阪市西区)の海北事務長も同席されました。その時は、医薬分業の話も出ましたが余り興味がなさそうでした。その後何回か浅田さん、海北さんと三人でお会いし会食をしましたが、分業の話はほとんど出ませんでした。

そうこうしているうちに、森本病院から「病院の裏の地主さんがワンルームマンションをお建てになるので、3階から上を全棟借りて病院の看護婦寮とする計画です。1,2階が貸事務所として空いているから育星会が薬局を開設しませんか」というお話が浅田常務さんからいただきました。

降って沸いたようなお話なので、私と川久保はびっくりしましたが、それ以上に浅田常務さんの頭の中には処方せん発行時の病院のシミュレーションが既に出来上がっておられたのには驚かされました。

ただ、当時最も苦労したのが店舗の確保です。病院の正面、出入口の横に店舗が2(ブティックと喫茶店)ありましたので、そこを借りに行ったのですが、何回行っても首を縦に振ってはもらえませんでした。最も良い場所でしたが、結局貸してもらえませんので、「それなら裏に開設しましょう」ということで、マンションの1階をお借りすることに決めました。しかし、処方せん発行後は、病院が患者さんの不便さを考え裏側にも出入口を作っていただけましたので、カイセイ薬局としては大変助かりました。

病院側としましては、「処方せんを発行するのであれば全部出す。部分的に徐々に出すということはしたくはない」という基本的なお考えでした。だだ、「いつということはまだ決めていない」ということでしたので空家賃を払うことを覚悟していました。しかし、幸いにも空家賃を払うことなく、ほぼ薬局開設と同時期に処方せん発行が始まりました。東住吉カイセイ薬局の開設には幾多の強運が重なったものと川久保と喜んでいましたが、実のところ「ワンルームマンションの1階を借りてはどうか」と浅田常務さんからお話いただいたのが全てでした。森本理事長さんと浅田常務さんの「口では厳しく心は暖かい」シャイな人間性を感じました。浅田常務さんとは現在なお会食などをさせていただいております。

処方せん発行が始まりましたが、抜群の立地条件となる正面の2軒に「どこか薬局が来るのではないか」と心配しながらのスタートとなりました。

家主さんとしては、6~7階建てのマンションの家賃だけではなく、1~2階の事務所・店舗部分を賃貸しして賃料収入を確保し、経営面で安定させたいという希望もありましたので、薬局を開設するという話は大歓迎でした。2階は清掃関連会社と保育所が入りましたが、1階は薬局が全フロアを借りました。

そして、それから数年後、「思いがけなく」という意味よりも、「予想していた通り」病院の正面の真隣の喫茶店が薬局に替わりました。しかし、その後2年ほど経過して病院が長居公園近くの東住吉区鷹合に移転(平成1610月)することになり、カイセイ薬局も移転しましたが、正面の方の薬局は移転しませんでした。平成169月のことです。育星会では病院移転の情報を早くから入手していましたので、早くから薬局開設の場所を探し、現在地を借りて移転することができました。

浅田常務さんには私と川久保はよく叱られました。「君たち薬剤師さんは常識の知らない非社会人だねえ~」・・・。ほとんど会う度にご指導を頂きましたので、何の腹立たしさも感じませんでした。叱られる度に常識を持つ社会人に近づいていくような喜びを感じていました。以後薬剤師エゴの塊であった私と川久保は、少しずつ社会人に復帰して行けたのは浅田常務さんがおられたお陰だと感謝しています。

当時は、処方せんを発行するので薬局を作るという形が中心でしたが、東住吉のケースは逆のケースとして初めての出会いでした。

この時代を境に資本力のある中小調剤薬局チェーンは銀行借り入れをしながら、病院の発行意思と関係なく病院前の一等場所確保に専念して行きました。私と川久保は自分たちの夢を叶える為調剤薬局のバブルに乗らず、牛のよだれのごとく、年間1軒程度の開設を目指し自己資本だけで進めました。
2012/04/10(火) 00:00