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(株)育星会の誕生への道のり  第15章 大規模病院の処方せん対応 扇町カイセイ薬局の開設

     15章 大規模病院の処方せん対応 扇町カイセイ薬局の開設

 

病院の処方せん応需を進める一方大規模病院の処方せん受け入れにも取り組みました。扇町カイセイ薬局は、大規模病院の処方せん応需を目的とした第一号店です。北野病院(大阪市北区)の処方せん応需を目的としたもので、平成43月に開設しました。

医薬分業について、病院の取り組みがそれほど進んでいない状況下で、「医薬分業とはどんなものか勉強したい」という北野病院側からの申し入れがあり、病院の幹部の方々が集まっている勉強会に呼ばれました。

その時に、「この病院は、大阪の中でも早い時期に処方せんを発行するのではないだろうか」という感じを受けました。

そこで、扇町カイセイ薬局を開設することになるのですが、大規模病院の処方せんを受け入れるのはどうすれば良いのかまったく判りません。大規模病院の処方せんを応需している他の薬局に聞くということは、過去の経験からも二度としたくありませんでしたので、聞きに行くこともしませんでした。そのため、病院の薬局長にお聞きしたりして取り組むしかありませんでした。その当時、長尾専務が薬局長と親しくしておりましたので、病院における医薬品の種類の把握や、どのようにして医薬品を調剤しているのか、などいろいろお話をお聞きしながら極秘のうちに準備を進めていきました。

1年ほど準備を進めた段階で、「眼科の処方せんから始める」という情報が入りましたので、「それなら受け皿の薬局を作りましょう」と準備を始めました。現在の北野病院ではなく、移転前の病院の時でした。病院は、平成13年、旧病院の北隣にあった旧扇町中学校の跡地に新築移転しました。旧病院の用地は、大阪市との土地交換により、平成16年に2小学校の統合によって誕生した大阪市立扇町小学校になっています。

旧病院の時は、患者の流れを考え、病院を出て梅田方面に店舗を開設しました。この店舗は、途中で家主が破産しましたが、裁判所の競売で買い取る事が出来ました。

当初の店舗は15坪ほどの非常に小さいスペースでした。現在の扇町店の半分ほどだったと思います。眼科が主な処方せんでしたので充分なスペースではなかったのですが、周辺ではそこしか借りることの出来る場所がなかったと云うのが実態です。その後、処方せん発行診療科も処方せん枚数も徐々に増え、順調に推移し始めました。

そして、病院の新築全面移転となるわけですが、その時には「処方せん全面発行」という計画になっていました。そのため、調剤薬局チェーンが続々と出店し、結局8軒ぐらい調剤薬局が乱立いたしました。育星会も一軒でスタートしましたが、JR環状線の天満駅か地下鉄の扇町駅の方に行く方向の場所に天満カイセイ薬局を開設しました。梅田の方に行く人の為の扇町カイセイと、天満や扇町の方に行く人の為の天満カイセイの二軒体制としました。

当初は唯一の応需薬局でしたが、他の調剤チェーン薬局も出現し、「嫌だな」と悲しみ、内心怒りすら覚えました。長年マンツーマンで応需して来た当社にとっては嫌だな~という観念が頭の中から消えませんでした。

当初は一軒でスタートしましたが、今から考えますと、枚数が多くなれば好むと好まざるとに関わらず他店が出てまいります。その時に自社は一軒だけで競合の道を行くか、それとも、医療機関の周囲を囲むように自社が出店するか決断を迫られましたが、競合の良さが解ってきた時期でもありましたので、自社の方向として一軒だけの競合を選びました。その時にカイセイ薬局の標語として「あなたにやさしい薬局・薬剤師」が出来上がりました。

これを境に頭の中が一変致しました。「競合というのはすごく良いな」を感じた時でもあります。それまでのマンツーマンよりも、患者さんを反面教師として社員達がすごく患者さんのことを考えてくれるようになりました。社員が競争の原理の中で働きますので、細心の注意をして業務に当たります。毎日日報に付いて来る付箋も徐々に減り始めました。「競合は社員の力を十二分に発揮させるなあ~」と考えるようになりました。従って、その時を境に競合への憧れが芽生え出しました。

同じ頃、病院前第一号店の尼崎カイセイや羽曳野カイセイにも競合店が出来始めました。「辛いなあ」という感じよりも、「これでやっと創設の時に夢に描いた薬剤師が当社に出来始めるな~」という嬉しい気持ちでした。

新しい北野病院の受け皿である天満カイセイ薬局と扇町カイセイ薬局は、みんなが競合の良さを感じ始め、カイセイ薬局の社風が出来始めた頃だと確信しています。

 

 

2012/03/10(土) 00:00