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(株)育星会の誕生への道のり 第12章 新たな取り組み 病院処方せんへの転換

     12章 新たな取り組み 病院処方せんへの転換

 

診療所の処方せんに対応する薬局を開設してきましたが、店舗数が増えてくると診療所のオーナーである医師とサラリーマンである薬剤師との、どうしても埋められない溝、本質的な違いがいろいろ出てきました。そこで、病院の医師であればサラリーマンであるため、サラリーマン同士で理解し合うこともできるだろう、ということで病院への転向を始めます。高石を開設する2年ほど前、昭和61年頃から構想として練っていました。

しかし、簡単に病院といっても、全く実態がわかりません。そのため、話を持っていく糸口もありませんでした。どうしたら良いかということで悩み、東京で調剤薬局のチェーン展開を始めた某法人薬局のオーナーに相談しました。それほど親しくないのに、のこのこと出かけて行きました。「どうすれば病院との分業ができるのか」を教えてもらうためです。2泊して頑張りましたが、最初は「ケンモホロロ」の状態でした。「目谷さん、そんなことは自分で考えなさい」と叱られました。

後から考えると、「よくも厚かましく行ったな~」と思いますが、その時は、「我が社はこのままいくとおかしくなる」と必死でした。川久保とも話しましたが、「会社が潰れるか、一段と伸びるのかの瀬戸際だ!」ということで、ちょっと名刺を交換した程度の知り合いではありましたが、「藁をも掴む」という想いで必死でした。

そして、「何か取っ掛かりはないかな」「病院のことを勉強したい」と考えている時に、岡田玲一郎先生と知り合いました。社会医療研究所を主宰されている先生ですが、日本の病院の転換期でしたので、新しい状況に乗って生き残っていくために、民間病院を集めて勉強会を開いておられました。その存在を聞きまして、参加を希望し、気持ちよく受け入れていただきました。開催場所は東京でしたが、毎月の勉強会に参加させていただけるようにしました。

岡田先生はご自身薬剤師で、病院の事務長などを経験され、勉強会を立ち上げられたのですが、私が訪ねた東京の某チェーン薬局の社長がその勉強会の副幹事のような立場の方でした。「これだ、このような組織を使わなくてはいけない」「これを逃しては発展できない」と考え、必死の覚悟で参加し、病院のことを勉強しました。

病院の合理的経営の一環として処方せんを発行するということがあったのですが、毎月上京して勉強し、全国の民間病院の先生方と親しくなりました。周りは医師ばかりで、薬剤師はほとんどおられませんでした。それまで、病院のことは全く知りませんでしたので、随分と良い機会となり、すごく勉強になりました。

しかも、普通の勉強会は病院の幹部級が参加するのですが、この会の良いところは、殆んど病院の院長か理事長が出席していることです。また、社会医療研究所とは別に、岡田先生のファンの医師が集まる場がありましたが、私もその中に入れてもらいました。ここでは、少人数でしたのでグングンと病院の知識が入って行きました。

そこで知り合ったのが、尼崎市の合志さん(合志病院)、羽曳野市の島田さん(島田病院)、大阪市東住吉区の浅田さん(森本病院)、西区の海北さん(多根病院)、高知市の近森さん(近森病院)などです。この後、これらの病院の処方せん応需に取り組むことになります。

病院と分業することについては、殆んどの調剤薬局が枚数の多いところを求めて病院対応に入っていきますが、当社の場合は、枚数は重要視しておりません。「いわゆるオーナーである医師とサラリーマンである薬剤師との本質的な違いが、マンツーマン分業の調剤薬局を最終的におかしなものにする」「薬剤師までおかしなものになってしまう」という危機感を感じていましたので、病院に転換しようと考えたわけです。

ですから、これから進んでいく方向も、「枚数が多いから」という考えよりも、まずは、病院の理事長や院長の人柄を重視し、その上で病院の進む方向を見定め、その方向に合わせられるかどうかで判断しました。以後10年ほどの間は、何年かのスパンで病院処方せん応需が進んでゆくことになります。

2011/12/10(土) 00:00