yoshio's blog

★寄り道Ⅱ(バトンタッチは誰に?)

引退してからは、ほとんど公の場には出て行かないのですが、ひょんなことから、最近、幾つかの旧人達との集まりに出て行く機会がありました。現役時代に一緒に仕事をしていた人たちですが、そこで言われたのは、「君たち(川久保・目谷)は、一人ひとりと会っている時は全然怖くはないが、二人一緒になるとすごく威圧感を感じた」と言われました。その時に共通して言われたことは、「飯田君を後任に選んだのはさすがだと思った」ということです。そのため、急遽、この問題でブログを書くことにしました。

飯田君の良さを褒められることは多々あるのですが、公の場に出て行く機会が滅多にありませんので、今回のように度重なるお言葉をいただく事は珍しいことだったのです。

飯田君は「嫌味がなく人間性が良い」ということなのですが、そこで、飯田君を後任にお願いした経緯を後輩の人達に少し紹介しておきたいと思います。

後任の社長問題。これは川久保が天国へ行く前後でがらりと変わりました。川久保が亡くなったため、川久保の主張がなくなったわけです。

川久保は、育星会は会長でしたが、JOVYは社長でもありました。彼は、JOVYを上場したいという考えを持っておりました。そのため、育星会と合併しようと考えていました。ところが、株価は10倍ほど育星会の方が高いわけです。資産にしても、収益性にしても全然違うわけですが、彼はその考えに固執していました。

そして、上場するためには、「外部から良い人材を引っ張ってくる方が良い」と考えていました。つまり拡大路線で、今の大手チェーンのような状況です。社長についても、川久保は「現状維持で進むのであれば、社長は飯田君が最も良いだろう。しかし、上場すればそうはいかない。拡大できる能力のある人材を入れるのが当たり前」という考え方でした。

しかし、私自身は、「上場すると、上場は『株主のために働く』『利益を追求する』ということが当然で、患者のため、そして会社の社員、従業員のために働くという、われわれの職業とは少し馴染み難いものだ」と思っていました。

ですから、育星会の社長として、上場することには反対で、時代の流れについていける規模の30軒ほどにとどめ、入れ替え制度にして社員に譲渡することも含めて競争時代の質への転換に備えようと考えておりました。川久保との長年の友人関係、信頼関係から、合併については真正面から反対はしていませんでしたが、事が進んだら、事前に合併反対の意志を明らかにしようと思っていました。

彼は彼なりに、私利私欲ではなく、JOVYを含めた構想の中で、拡大しようと考えていたのですが、私自身は「調剤薬局は拡大は馴染まない、質を整えることしかない」という考えでした。何故なら、拡大しても国の施策・方針によってがらりと変わってしまいます。このことは医療機関の移り変わりを長年目の前で見ていたものですから、調剤報酬の儚さは言うに及ばずでした。従って、苦難の道が来ても対応できる体制でやっていこうと考えていした。

その点では、二人で決めかねていた後任の社長は、彼が亡くなったのを契機に状況ががらりと変わりました。

私自身は、川久保の闘病生活のために、1年間会社を留守にしていましたので、会社に戻っても、昔のように愛着がもてませんでした。川久保の死亡とともに、「生涯かけて医薬分業へ取り組もう」という強い意欲が消えてしまっていました。自分たちが創った会社ですが、気持ちが萎えてしまっていました。「ちょうど良い。これを契機に引退しよう」と考えました。

そこで、引退するのであれば後任の社長を選ばなければなりません。候補者の中から選ぶに当たって、規模は小さくても力強く生き抜いていく薬局にするためには何が必要かを考えました。

企業のトップはとても辛いものです。評価されることもありますが、孤独で、曲解されたり、悪く言われたり、そのようなことに耐えていかなければなりません。

私も川久保も、そのようなことに耐えられたのは、「ニコイチ」の関係ということもありますが、二人とも家庭・家族を大事にしていました。そのため、どれだけ誤解され批判されても、「最後は家内とか子供が理解して信じてくれれば怖いことはない」と考えていました。これが人生の最大の武器になりました。責任のある立場で仕事をしていく上で、「家庭が大事」ということを解っていましたので、「家庭がしっかりしている者が社長になるべきだ」という信念を持っていました。

そのため、社長を決める前に、幹部全員と家族同伴で海外旅行に行きました。その場で、どのような家庭を築いているか、会社と家族の関係などを観せていただきました。そこで、飯田君の人柄と家族の良さを再確認できました。そこで「間違いない」と判断し、帰国してすぐにバトンタッチすることを表明しました。これについては、ほとんどの社員が当然のように賛同してくれました。

川久保が亡くなったので、私も彼と戦わずに済みました。川久保が生きていれば、袂を分かつ戦いになっていたと思います。彼と戦えばコテンパンに負けていたと思います。川久保は川久保で「目谷は負けたふりをしてもしぶとい奴だ」と思っていたと思います。よく、「死んだふりをしやがって!」と口癖のように言っていました。

川久保は「社内で人材を求めるのなら飯田君しかない」といつも言っていました。

育星会の気風とか将来の方向性についてよく理解できている飯田君が育星会を引き受けていただけた事を感謝しています。

2011/08/10(水) 00:00